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カテゴリー: 未分類 | 1件のコメント

「無縁」 「公界」 「アジール」 ―― 近代的な方法論がどんづまった今、「前近代」 を見つめ直すことの意義。

 
ひさびさに、この二人の対談、「中世の再発見」 を手に取る。
 
 

  

 
これを最初に読んだのは確か20年位前だったような気がする。
従来の常識的な歴史認識を根底から覆してしまった二人の碩学による含蓄に富んだ鼎談。
次々と呈示される新しい視点の数々に目を見開かされ、ただただ感嘆したものである。
 
もともと 網野善彦 は日本史、阿部謹也 は西洋中世史が専門なので、直接的には接点はなかった。
しかし、お互いの関心の近さや共通する歴史観もあってか、この対談を経て意気投合。
生涯に渡って親交を深めたようである。
 
 

 
 
西洋中世は長い間、「暗黒の時代」 と言われてきた。
その後、研究が進んだ結果、そうした見方は、一種の迷信のようなものであることが明らかになった。
実際は、中世全般を通じ、民衆の文化や経済活動などさまざまな営みは豊潤なものであったらしい。
ルネサンス も通説で言われるような、14~16世紀の イタリア を中心とした運動に限られるものではなく、それ以前からほぼ西欧全域において不断に起こっていたことが明らかになっている。
こうした歴史認識の転換に関して、阿部謹也 の功績は非常に大きい。
 
かたや 網野善彦 である。
彼は日本の中世観に関して、同様のパラダイム・シフトをもたらした張本人である。
凶暴暗愚な支配者とその下に暮らす惨めな被支配者による社会という単純な図式は覆された。
実際はより自由で豊かで生き生きとした営みがさまざまな分野で花開いていたことが明らかになっている。
 
 
阿部網野 両者が積極的に取り上げているのは、それまでの歴史学や政治学が無視してきた宗教祭祀的、呪術的な社会組織である。
今までは、権力の支配形態と生産流通、すなわち、政治と経済によって時代や社会が説明され、宗教祭祀的、呪術的要素はそれらの単なる補完物のような扱いを受けてきた。
そうした視点からは、「支配-被支配(従属)」 という単純な二元論的な色分けしか出てこなかったのである。
 
 

 
 
網野 は、「無縁」 という社会関係の概念を提起する。
これは、「世俗的な社会の権力の関係とは無縁である」 ―― という意味である。
中世においては、「無縁である/無縁とされる」 ことによって、「支配-被支配(従属)」 の関係から独立した自由な存在があった。
―― これは、今現在の常識からは、理解しがたいことかもしれない。
自由な独立を保証する、何らかの根拠 ―― 「力」 のようなものがないように思われるからだ。
ところが、網野 は、従来 「支配」 の補完物としてしかとらえられてこなかった寺社や天皇制の中に、その根拠 ―― 「力」 を見出す。
たとえば、海岸地帯の桑名の人々は古くから 朝廷 に牡蠣を献納することになっていた。
これは、中世から近世になればなるほど、政治的、経済的意味は弱まり、宗教祭祀的意味しかなくなるはずである。
しかし、桑名の人々は、戦国期以降も、朝廷 への献納を行なっていることを理由に、領主に対して政治的、経済的支配を拒否することができたのである。
こうした 「無縁」 によって形成された社会を 網野 は 「公界」 と呼んだ。
これは、世俗的な権力に対する 「公」 という意味である。
公界」 は、職人、芸能者、商人といったさまざまな人々の組織集団に見られるが、その中では、きわめて自由で平等な生活が営まれていた。
世俗権力による統治機構の不介入、租税の免除、通行の自由、武力の不介入、隷属からの自由、債権債務関係からの自由、自治組織の存在などなどである。
 
公界」 として成立しているもののうち、「楽市・楽座」 として知られているものや、自治都市であった  などは、以前からある程度の歴史的評価を得ていた。その根拠は、「そこにおいては、近代的私的所有制、近代的私的権利がある程度認められていた」 という表面的なものでしかない。
公界」 の中には、各種の 「賎民」 による組織集団もあった。
こうした集団は、これまでは、ともすると 「暗黒の中世」 のものとしか考えられなかった。
だが、世俗権力からの 「無縁」、あるいは 「公界」 という視座から眺めるとき、これら 「賎民」 集団の生活は近代的な差別観から自由な、時に生き生きとしたものとしてとらえることができるのである。
 
 

 
阿部謹也 は、ヨーロッパ中世の社会組織、職能集団組織についての研究を行なった。
彼は、網野 のように 「無縁」 や 「公界」 などといった特別な呼称を用いることは無かったが、そうした組織の 「アジール」性に注目した。
アジール」 とは、「聖域」 「自由領域」 「避難所」 「無縁所」 などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。具体的には、おおむね 「統治権力が及ばない地域」 ということになる。
ヨーロッパ中世に存在した多くの組織集団も、その根拠に宗教祭祀的、呪術的な意味合いを持つものが多かったようである。
それらは世俗的な権力から独立し、権力から追われる者にとっては、文字通り 「避難所」 の役割を果たしていた。
これは、まさしく 網野 が呈示した 「無縁」 や 「公界」 と同様な機能を持っていたということができよう。
 
たとえば、「新大陸」 と呼ばれた アメリカ は、ヨーロッパにとっては巨大な 「アジール」 であったはずである。
独立宣言 前の 13植民地 時代。そこでの法習慣や町の成り立ちには、ヨーロッパ中世の庶民生活が色濃く反映されていたと言う。
これはあまり知られていない。―― というよりも、無視されてきた。。。と言った方が良い。
おそらく、初期アメリカの近代的民主主義のイメージが 「暗黒の中世」 のイメージと相容れないものであるという先入見が強く働いているためであろう。
 
 

 
 
われわれは、近代的政治理念の傲慢さに気付かなければなるまい。
たとえば、「所有」 である。近代的所有制度は 「無主」 を認めない。
しかし、「無縁」 や 「公界」 の伝統がつづいているところでは、明治期にいたるまで、「無主」=「共有」 がなされていた。
山林である。山林は実用的な意味での 「無縁」 「公界」 であるだけでなく、宗教祭祀的、呪術的な意味合いにおいて 「アジール」 でもあった。
明治期、近代法による近代的所有権の概念が導入されると、山林に 「無主」=「共有」 は通用しなくなった。
―― 代わりに現れたのが、「入会権」 なる非常に複雑怪奇なシロモノである(煩瑣になるのでこれ以上の言及は避けたい)。
 
かくして、「近代化」 の美名のもと、 「無縁」 「公界」 「アジール」 は姿を消すことになる。
 
にもかかわらず、人間の本性には、「アジール」的なる場所を強く希求する底意が根深く残っている。
もとい、それは人間に限らず、「生命」 なるものの本質にかかわるものなのかもしれない。
 
近代的な方法論があらゆる領域で隘路にはまりこんでしまっている今、中世をも含む前近代を見つめ直す必要があるように思う。
失われた 「豊かさ」 に改めて触れたいと願う。
網野善彦。そして、阿部謹也―― お二方の思いもそうだったのではなかろうか。
 
いずれも他界されてしまった今、その貴重な鼎談はもう見聞きすることはできないが、案外、かの地で酒を酌み交わしながら愉快に尽きない歴史談義に花を咲かせているのかもしれない。
 
 
 
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再び失職か。。。間が悪いなぁ。。。

 
現在の仕事。生活保護施設更生施設等)から退所し、地域でのアパート生活に移行した人たちのアフターフォロー。
具体的には、訪問して安否確認をしたり、折々に相談に応じたりするというもの。
もともと、こうした施設を所管する都内23区の行政組合組織から、わたしが所属する法人が委託を受けて行なっている事業である。
 
委託費が非常に安いため、件数を受ければ受けるほど赤字がかさんでゆくという有様である。
これまでは、他の黒字事業の収入によって穴埋めをしながら続けてきたのだが、件数が増えるばかり ―― したがって、赤字はどんどん膨れ上がるばかりで、とうとうこれ以上続けられなくなっている現状。
 
法人の運営責任者からは、委託元へ 「来年度も続ける」 との表明をしてしまっている。
ここへきて、再度試算すると、やはり続けられないことが明らかになった。
もはや受託を断るしかないだろう。そんな流れになっている。
年度末も近づき、どう対処するのか、運営責任者の責任は重い。
 
一番割りを食うのは、このサービスの利用者。そして、我々現場で働く者たちだ。。。
 
私自身も単年度契約で雇用されている身分なので、おそらく、3月末で失職することになる。
またもや、失業手当で生活することになる。
この不況のご時世に、就活もせねばならない。
心身のコンディションもやっと本調子に戻ってきたところなのだが、間が悪い。
 
この数年間は、どうもこんな具合で転職を繰り返す体たらくだ。
本当に間が悪いなぁ。
まいったなぁ。しんどいなぁ。
 
 
果たして、「窮すれば通ず」 ―― ってあるんだろうか。。。
 
 
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「俺たちが最初で、俺たちが最後だ」 ―― 縦横無尽に跳躍する音塊に打ちのめされて。。。(ザ・ポップ・グループ “Y”)

 
「これまでに聴いた音楽表現の中でもっともすぐれた作品をひとつだけ選べ」 と問われたら、迷わずこう答える。
 
ザ・ポップ・グループ の 『』 を置いてほかにはない」 と ――
 
 

 
ロック がただ形としての音楽を維持していくしかなくなった時、パンク は現れた。
そして、その パンク さえも ロック あるいは ロックンロール のフォーマットから自由になり得ないというジレンマ。
形式、様式が「思想」までも規定してしまう、そうした危機感が生まれつつあった70年代末、
ザ・ポップ・グループ はシーンの中に登場した。
 
メンバーは5名。結成時は皆17歳、ハイスクール在学中だったようである。
ほとんど音楽的なキャリアもなく、おそらく既製の ロック に対する思い入れも、語るべき言葉もなかったと思われる。
あったのは、ただあり余る激しい自己表出への欲望とパッション。そして突出したセンスと類稀な「才能」である。
ザ・ポップ・グループ」 というユニット名は、シーンに対するアイロニー、あるいはカウンター的な意図を示すものであろう。
このネーミングは、実にシンプルであり、凝り固まった教条的な匂いもない、オープンで自由な発想である。
 
 

 
 
さて、「」 である。
プロデュースを務めるのは、レゲエ のユニット、マトゥンビ のリーダー、デニス・ボーヴェル である。
なぜ、彼を起用したのかという問いに対し、彼らはこう答えている。
レゲエ のプロデューサーは良い音を得るために手段を問わないからだ。そして、レコードから ロック らしさを排除するためだ」
当時の彼らの思いの中には、パンク・ムーブメントを含む ロック なるもの、それを成立させている方法論とイデオロギーへの強烈な不信感、そして、既存の ロック を徹底的に解体し尽くそうという指向性が抜きがたく存在している。
このアルバムはそうした彼らの持つ資質が、ボーヴェル によって過剰なまでに 「演出」 された ダブ 的手法の駆使を通してさらに増幅された ――
―― それこそ、音が縦横無尽に跳躍しまくるような、自由奔放な作品 ―― それまでのいかなる既存のジャンルにも納まらないノンジャンルな作品として結実している。
 
ここには、卓越した演奏テクニックをひけらかそうとか、聴きやすく、心地よい、様式としてまとまったサウンドを作ろうとか、高度な音楽性を表現しようとか、そうした既存のシーンに数多見られた諸々のコンテクストから徹底して自由であろうとする、従来の音楽のどんな 「テンプレート」 にも当てはまらない強烈な意志が存在している。
当時の「時代精神」 が持っていた激しく燃え盛るような カオティック な状況を全身で体現し、メタフォリック なメッセージを叩きつける ――。彼らの衝動はそのような形でしか表現し得なかった。。。
 
俺たちは何も持たない
何も学ばない
何も知らない
何も理解しない
何も売り渡さない
何も助けない
ただ、裏切るだけ
俺たちは決して忘れない
"Thief Of Fire"
 
 
待つこともできない
逃げることもできない
過去を探し求めることもできない
今が全てだ
俺たちが最初で
俺たちが最後だ
"We Are Time"
 
暴力。狂気。破壊。まさしく カオス のような音塊。
リズム・セクションが創出するダイナミックでヴィヴィッドなファンク・ビートに絡みつくフリーキーなサックスとジャジーなギター。
これらを丸ごと切り裂き、容赦なく解体し、原形をとどめないような形で再構成する ボーヴェル の ダブ
そうした カオティック な音響の中で浮遊し、聴き手の期待をことごとく粉砕する、時に呪文のように、時に絶叫するように地の底から響き渡ってくるがごとくのヴォーカル。
かつて、セックス・ピストルズ を脱退し、後に パブリック・イメージ・リミテッド を結成するに及んだ ジョン・ライドンジョニー・ロットンが言い放った言葉 「ロックは死んだ」 ――
―― この言葉は、まさしくこの作品、「」 にこそ冠されるべきものである。
 
今でも折に触れて、この作品に耳を傾ける。
リリースされて、はじめて聞いたときの衝撃は、今でも色褪せていない。
私の、決して忘れ得ない、重い 「原点」 のひとつである。 
 
 
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「空像としての世界」 ―― 脳が、そして宇宙さえもが 「ホログラム構造」 をなしている可能性を問う。。。

 

 
1970~1980年代。「ニューサイエンス」 という自然科学の分野から起こった潮流があった。
コトバンク の解説によれば ――
1970年代にアメリカの自然科学分野で起こった反近代主義運動の一。西欧科学の根幹である物質主義・要素還元主義の克服を目指した。アメリカでは本来ニューエージサイエンスと呼ばれたが、日本でニューサイエンスと呼ばれるようになってから、アメリカでもこの言葉が使われている。
―― とある。
80年代当時、コンピュータのソフトウェア開発の仕事に携わっていた私は、そのあまりの 「要素還元主義」 的作業に明け暮らす毎日に、正直嫌気がさしていた。
学生時代から 工作舎 やら 青土社 やらから出版される本に親しんでいたこともあってか、「ニューサイエンス」 関連の著作に触れる機会も多かった。
 
こうした流れの中で一際私の目を引いたのは、カール・プリブラムに代表される 「脳ホログラフィ理論」 だった。
 
カール・プリブラム (Karl H. Pribram、1919 年 2 月 25 日ウィーン生まれ)
 

ジョージタウン大学心理学および認知科学の教授。神経生理学者。
神経外科医として訓練を受けたプリブラムは、スタンフォード大学で教授職に就き、脳梁についてのパイオニア的な業績を残した。
一般的には、認識機能のホロノミックな脳モデル開発者および記憶痕跡の継続的神経学的研究者として知られている。

 
ホログラフィ」 とは三次元的映像を現出させる写真技術で、その数学的原理は1947年に デニス・ガボ-ル により呈示されていたが、実際の技術的な実証が可能になったのは、レーザー の研究が進んだ1960年代になってからである。
通常の光学的写真ではフィルムに当たるものが、ホログラフィ では ホログラム と呼ばれるものになる。
この ホログラム には、対象となる被写体に関する光学的な全情報が フーリエ変換 されて レーザー 光線の干渉縞として記録されることになる。
そのため、ホログラム を単純に観察してもそこに被写体の姿を見て取ることはできない。
ところが、この ホログラムレーザー 光線を照射すると、干渉縞に 「織り込まれていた」 被写体の姿が三次元的な虚像として浮かび上がってくる。
 
 
 
 
当時、スタンフォード大学 に在籍していたプリブラムは、この ホログラフィ の原理に着想を得て、人間の脳に関する大胆な仮説を提起した。
これが 「脳ホログラフィ理論」 と呼ばれるものである。
 
ケン・ウィルバー 編の 「空像としての世界 ―― ホログラフィをパラダイムとして」 において、この理論は次のように定義されている。
「われわれの脳はある数学に則り 『具体的』 実存を作り出すが、それは別の次元、すなわち時間・空間を超越しながら有意味でパターン化されている第一次的な実在領界からの、振動数を解釈することによってなされる。
脳は、ホログラフィック(完全写像法的)な宇宙を解釈するホログラム(完全写像記録)である」
この 「脳ホログラフィ理論」 が呈示する主要な考え方を ウィルバー は次のように整理している。
「脳の複雑な数学的仕組みは、神経細胞と神経細胞の交点(シナプス)における相互作用に、おそらく依存している。この相互作用は枝分かれしている軸索上の微細な繊維の網状組織を解して行なわれる。神経インパルスは、この微細繊維の中で、数学を遂行することができる電位をもつ「緩波」のうちに顕在化してくる」
「脳における情報は 『ホログラム』 として分布しているといえる」
「感覚入力 ―― 聴覚、身体感覚など ―― のもつある種のステレオ効果は、一点に生じる感覚を一気に空間化する」
「プリブラムはまた、超越的経験にも、もしかするとある種の『投射』が伴うかもしれないと考えるに至った」
「神経ペプチド、この最近発見された大きい分子こそ、脳の伝達物質を規制するものであり、脳の機能を解明する糸口となりうることがいずれ明らかになると彼は思っている」
「神秘体験とは、たとえばDNAがそれぞれの器官を一つずつ形成するために選択的に抑制を解除するというような、他の諸現象と比べてすこしも奇異なものではないとプリブラムは考えている」
こうした 「ホログラフィ理論」 が デヴィッド・ボーム の 「内蔵秩序」 の理論と通底していることは明らかであろう。
しかも、プリブラムの見通しの中には人間の大脳の持つ潜在的可能性を予想させるものがある。
「われわれの脳はある数学的論理に則って、時間や空間を超越している根源的な実在領界からの振動を解釈することによって具体的な 『実在』 を造りだしている」 ―― というプリブラムの考え方は、「ホログラフィック・パラダイム」 として神経 生理学 や 物理学 をはじめとする 自然科学 と 神秘主義 とを矛盾なく結びつけるための有力な手がかりとなるかもしれないのだ。
 
 
この理論が注目され始めたのは、1970年代であった。
 
現在、この理論のその後の消息がどうなっているのかはまったくわからないが、いま再び光を当てられても良いのではないかと思う。
 
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「ホメオスタシス」 考 ―― 「《欲望》の自己運動」 の顛末としての現在から。。。

 
 
 
20世紀の前半、生理学者、ウォルター・B・キャノン は、生物の特徴として、「ホメオスタシス」 という概念を唱えた。
これは、」(ギリシャ語 の「homeo(同一の)」 と 「stasis(状態)」 とを組み合わせた造語であり、日本語では 「恒常性」 と訳されることが多い。
生物体は、その活動のために、つねにエネルギーや自らを構成する物質を、外部環境との間で出し入れしている。
―― つまり、「開放系オープンシステム」 になっている。
一般的に、「開放系」 は当然のごとく、外界(外部環境)からの影響を受ける。
ところが、生物体は、「開放系」 でありつつ、その形態や状態を一定に保持することができる。
キャノン は、これを生命活動の基本的な特徴と考えたのである。
 
ほぼ時を同じくして、生物学者、ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ も同様な概念を唱えた。
彼は、生命活動を有機的な 「システム」 としてとらえている
従来、生命は、「機械論」 あるいは 「生気論」 のいずれかによって説明されていた。
機械論」 の立場は、生命を精密な機械のようなものと考える。
一方、「生気論」 は、生命活動は、生命体とそれを動かす 「生気」 なる何らかの非物質的な存在によって司られていると考える。
こうした議論に対し、ベルタランフィ は、生命活動あるいは生物体を、「開放系」 における 「有機体」 ととらえたのである。
 
キャノン や ベルタランフィ の考え方は、生命現象を 分析 的にとらえようとする近代西欧的な パラダイム の限界を超克する可能性を持つものとして、生物学 や 生理学 のみならず、工学 などの応用自然科学、引いては、社会学 や 政治学経済学 など 社会科学 分野にまで敷衍されつつある。
 
 
  
 
 
ホメオスタシス」 という概念は、個体としての生命に関してだけではなく、それを取り囲む 生態系 や集団、社会といったものにも広げて適用することができる。
生態系 が一定の状態を保っている仕組みにはさまざまなものがあるが、そのひとつに 食物連鎖 がある。
たとえば、植物を捕食する草食動物、その草食動物を捕食する肉食動物、さらにそれを捕食する大型の肉食動物。。。また、排泄物や死骸を捕食する微生物。。。
―― というように、相互に連なり、大きく円環状に循環することで、生態系 のバランスは保たれている。
つまり、 生態系 それ自体も、個々の生物体、生命現象と同様、自律的な 「ホメオスタシス」 を保持しているのである。
 
それを生活の中で体験的に知っていた伝統的な社会では、たとえば、川や海などの浄化力に対して大きな信頼を寄せていた。
そうした社会においては、先人たちは、「生活上の排水を川や海に垂れ流す」 という観念を持ってはいなかったように思う。
食物はほとんど無駄なく使い切り、排泄物さえ農耕に利用する。
もし使い切れないものがあれば、やむを得ず 「水に流す」 こともあったであろうが、それは川や海の自浄作用 ―― 微生物が捕食し、その微生物を小魚が捕食し、さらにまた、小魚は大きな魚に捕食される。。。―― という食物連鎖の循環によって解消されていたであろう。
 
しかし、近代化とそれに伴う 工業化 が進むと、こうした自律的な 「ホメオスタシス」 はたちまち崩壊することになる。
それまでは、排水ひとつとってみても、全体的な生産/消費のバランスに規定され、「適正」 に維持されていた。
ところが、工業排水は何者にも規定されることがない。
「たが」 を欠いた 「資本の論理」 によって、工業生産それ自体が持つ自己増殖的な働きにドライブがかかる。
どんどん、汚染された排水や廃棄物が野放図に 「垂れ流し」 される。
同様に、一般市民の生活も 「消費の論理」 により著しくバランスを欠くことになり、生活排水や廃棄物もどんどん膨れ上がる。
結果、川も海も、その自浄能力を超えた 「負荷」 にさらされ、自律的な 「ホメオスタシス」 は壊滅的なダメージを受ける。
―― 食物連鎖の恐ろしさのひとつに、その結果、生物に蓄積しやすい物質が上位捕食者に集中していく 生物濃縮 という現象を招くということも指摘されよう。―― たとえば、つい最近、クジラ類を多く食する習慣のある和歌山県の沿岸地区に住む人たちの頭髪から高濃度の水銀が検出されたという ニュース があった。。。
 
 河川や海洋の汚染問題に限らず、国境を越えた 産業廃棄物 処理(参考:「バーゼル条約」)をはじめとする深刻化するゴミ問題。
さらには、地球温暖化 や森林乱伐、乱獲による生物種の 絶滅 の増大などの環境破壊の問題等々。
これらも、生態系 の自律的な 「ホメオスタシス」 の崩壊を示す事象であろう。
 
 
 
 
 
先に、「たが」 を欠いた 「資本の論理」―― という言葉を使ったが、我ながら面白いと思った。
―― これは 「《欲望》の自己運動」 と言い直してもよかろう。
生態系 のみならず、社会のさまざまな局面で、ガバナンスの欠落した事態が進行していることを見れば、その根の深さがうかがい知れるというものである。
たとえば、過剰な 金融市場化 と グローバル化 がもたらす弊害により、未曾有の 世界金融危機 は起こるべくして起こった。
世界規模の 南北格差 やそれに伴う 飢餓貧困紛争 などの問題も同様である。
こうした状況からは、社会全体に渡って自律的な 「ホメオスタシス」 が壊滅状態に陥りつつあることを示しているように察せられる。
どこを見渡しても、地球規模で 「適正な」 フィードバック が効かないという危機的事態にあるように思えてならない。
 
 
このまま 「ゆらぎ」 が増幅され、おそらくは、やがて激震のような カタストロフ がやってくることになるだろう。
あるいは、どういう経過をたどるかはさておき、「新たな秩序創出」 がなされるかもしれない。
それまで、人類は絶滅せずに生き延びることができるのであろうか。
 
 
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「天命」 に耳を傾け、「大いなる流れ」 に身をまかせる ―― 「降りてゆく生き方」 に活路を見出す。

 
2010年も、年が改まって早2週間が経過する。
世の中の動きも思いのほかますます目まぐるしく動いてゆくように感じられる。
良いことも悪いことも (最近は良いニュースはあまり聞こえなくなったが…)、それこそ猛スピードで目の前を通り過ぎて行く。
自然、せかされるような、浮き足立つような気持ちにもなる。
 
 

 
こうした中で自分を見失わないようにするには一体どうしたら良いのだろうか。
たいていの場合、必死にその場に踏み止まり、自己をしっかり保とうと懸命に頑張ってしまうものなのではないだろうか。
気がつくと私自身そうしているのにハッとする。
「自分の力に頼って頑張ること」―― これがあたかも正しいことのように世の中では思われている。
でも、本当にそうなのだろうか。
「自分が、自分が」 と 「頑張る」 ことに汲々としていると、ただそのことだけに消耗してしまってかえって何も見出せず、自分がどこにいて何をしているのかさえもわからなくなってしまう。――
―― などということも往々にしてあるような気がする。
その挙句に心身に異常をきたしたり、人間関係で行き詰まったり。。。
そうなってはじめて自分自身を振り返り、「ああ、何か大事なことを見失っていたんだな」 と気づいたりする。
 

ある時から、「力まかせに頑張ってしまうのではなく、とりあえずは今目の前に起こっていることに抗わず、目に見えない 『大きな流れ』 に身をまかせて生きられたらいいな」 と思うようになった。

 
ところが、それは思うほど簡単なことではない。
不安や恐れや不満などなど否定的な思いがふつふつと頭をもたげてくる。
「さあ、明日からどうやって食べて行こう」 とか 「人からどう見られるだろう」・・・とか。
それが昂じて、またしても 「何としてでも頑張ろう」 という気負いがうまれてシャカリキになり、「力み」 が極まった末に体調を崩したり、落ち込んだりと、その繰り返しに陥る。
もちろん、懸命に努力して 「人事を尽くす」 ことも時には必要だろう。
しかし、とかく 「人事」 は視野の狭い独善に傾き、かえって事をややこしくしてしまいがちのように思える。
 
それよりはむしろ 「天命を待つ」 方に重きを置き、目の前に起こっている事象の裏側でそれらを司っている 「大いなる流れ」 を見通し、それに逆らわない生き方の方が自然の理にかなっているのかも知れない。
「大いなる流れ」 の中に身を置いて 「天命」 に耳を傾け、それを尊重して生きる方が断然楽なような気がする。
そして何よりも、そちらの方が賢明な生き方なのかもしれないなとも思う。
―― これは以前書いた 記事 で取り上げた、「降りてゆく生き方」 に通ずるものである。
 
 

 
「自分はまだまだだなあ」 と日々思い知らされながら、ますます、何とかそういう 「境地」 に辿り着きたいと願ってやまない、惑い多き日々である。。。
 
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「統合失調症」 と 「自己組織化」 ―― われわれは、自他の非対称性を、そして、永続する 「一方通行性」 をかろうじて生きている。。。

 
個人であっても、社会集団であっても良い。
ひとつの統一のとれた「組織(システム)」―― もっとも、厳密にはここから定義を始めなければならないのだが ―― があった場合、その構成要素が互いに影響を与え合いながら、システム全体の 「秩序形成」 にも影響を及ぼしている状態。
―― これが、言わば 「自己組織化」 の過程である。
 
自己組織化」 は、一見すると体系が安定を保っているように見えても、実はその内部で相互に情報を交換し合って、組織全体をさらに変化へと促すダイナミックな過程でもある。
この概念は、「システム理論」 の大きな支柱として、すでに、物理学や化学の領域に限らず、生物学、天文学、工学、さらには生態学、経営学、社会学など、およそあらゆる分野へと援用されている。
 
 

 
しかし、「自己組織化」 の考え方というのは、何よりも、世界と個人とが相互にかかわりあってゆく生々しい状況にこそ打ってつけの、そうした場に現れる事態を端的に記述できる最適な概念枠なのではないかと思う。
 
たとえば、「私」 が 「世界」 と 「出会う」 ときには、「私+世界」 でも 「世界+私」 でもない、「私」 と 「世界」 とが一気に現れる 「場」 がそこに形成されるように見える。
 
実は、こうした形成場面における、ひとつの 「特殊な事態」 を、われわれは 「統合失調症」 と呼んでいるように思う。
精神病理学 の次元においては、まず 精神病 が 「異常な病」 であるという規定を取り払うことからはじまる。
すでにこの時点で、「異常」 であることと、「病」 であることの 「二重の呪縛」 からの解放を企てねばならない。
とりあえずここでは、「病者が彼なりに自らを示し、医師が彼なりに自らを示すときに、両者の“間”に現象する事態」 を 精神病 とする ―― という 木村敏 の考え方に依拠したい。
 
この 「精神病論」 を拡張すれば、「病」 とは、「個人」 と 「世界」 との 「間」 に生ずる歴史的、実存 的な出来事であると解釈することができる。
もちろん 精神病 は決して 「正常」 な状態ではないが、自己と他者との 「間」 で 「新たな自己」 の抽出される過程(個別化)において危機的な事態が生じた際に、「統合失調症」 という 「存在様態」 が医師の前で呈示され、「診断」 される ―― ということなのであろう。
西田幾多郎 の言葉を借りれば、
「私」 が 「私ならざるもの」 に出会う瞬間、「私が他に於いて私自身を失うと共に汝もまたこの他に於いて汝自身を失う」 ―― その時こそが、私(自己)と汝(他者)の危機的事態の始まりということになろう。
 
 
適切な捕捉説明になるかどうかわからないが ――
精神科医、安永浩 が、「統合失調症」 を言及することに絡めて、われわれの体験の中に含まれる 「自他」/「全体部分」 などの二項対立について、論理学的な一般化を試みているので紹介しよう。
①「おのおのの対立項A、Bは、それぞれの見地において完全な分極をなし、第三の項Cが介在する余地はない。
  また一方を欠いては成立しない」
②「体験にAという面の存在すること、それを理解しうることの根拠は、もはや他に求めることはできない」
③「Bは〈Aでない方の面〉といえばこれに対立し、衝突してくるものとして必ず体験に現れるため、理解される」
④「Bを公理とすることはできないし、〈Bでない方〉と言ったのでは、Aの本質を理解するわけにはいかない」
以上のような論理展開によって、安永 は、「自己」 の 「他者」 への 「陥没」、つまり 「私が私でない感じ」 という 「統合失調症」 特有の危機的事態がどういうものなのかを、逆説的に説明しようとする。 
ここでは、たとえば 「自己」 と 「他者」 とがまったく同等の権利を持っているのではなく、〈「自己」 でないもの〉を〈「他者」 であるもの〉と一方的に規定する 「力動関係」 が存在しているのである。
この場合、常に 「自己」 が根源的に前提されていて、そののちに 「他者」 を経験したという記述が可能となるのであって、二項対立の非対称性、永続する 「一方通行性」 を綱渡りするようにわれわれはかろうじて生きているのである。
―― これはまさに 「自己組織化」 の過程であろう。
 
ところが 「統合失調症」 では、往々にしてこの 「一方通行性」 が 擾乱 してしまう事態が生ずる。
つまり 「非他」 として 「自己」 を構造化してしまうために、「他人の中に自分が入ってしまう」 といった奇妙な経験に陥ることになるのである。
 

 
もうひとつ、補足説明の材料を挙げてみたい。
神学者、 八木誠一 の 「フロント構造」 理論である。
「自己」 と 「他者」 とが出会う最も間近な場面を、八木 は 「フロント構造」 と呼んだ。 
 
個々で一枚の仕切り壁で隔てられたふたつの部屋A、Bを考えてみる。
このとき、Bの壁のうちでAに面した部分は、すでにAの一部となっている。
同時に、Aの壁の一部はBの一部となっている。
したがって、二つの空間、A、Bはそれぞれ独立して立ち現れているのではなく、ひとつの壁を共有しつつ、AではないBが、BではないAの一部として現れることでAの存在あるいはBの存在を成り立たしめているのだ。
A、Bを 「自己」、「他者」 と読みかえれば、仕切り壁(「フロント」)は、単に両者を分節化しているだけではなく、そこで自己が他者と出会い、「自己」 が 「他者」 に、「他者」 が 「自己」 に属しているのだ ―― と捉えることことができる。
私と外界との間には無数の 「フロント」 が置かれている。
そして、私の身体空間は外部に対しては無限に広がり、身体内部に対しては極小にまで ―― 一個の細胞は隣接した他の細胞と物質や情報を交換させている ―― 縮められていく。
 
自己組織化」 の観点から見ても、ある 「フロント」 において 「自己」 と 「他者」 が対峙している時、「自己」 にはその内に 「他者」 を溶け込ませるだけの柔軟性が備わっていなければならないのは言うまでもないであろう。
「自己」 は 「他者」へ、「他者」 は 「自己」 へと一気に相互陥入するのである。
いや、「自己」 やら 「他者」 やらと、われわれが呼んでいるよりもはるか以前に、それらが混沌とした曖昧模糊とした状態 ―― 主客未分の状態と言って良いだろう ―― があって、その 「友好的」 とも言える 「共存状態」 のあとで、さまざまな 「文明史的歴史過程」 を経て、「自己」 とか 「他者」 あるいは 「フロント」 へと分節化が進展(「自己組織化」)していったのであろう。
 
さらに、西田幾多郎 を引用する。
「われわれの純粋経験の状態を一層深く大きくした知的直観によって、主客未分の超越的場で成立する経験に統一が与えられ、一なると共に多、多なると共に一となる自家発展が完了するのである」
『善の研究』より
 

 
生の営みの中で、延々と 「自己組織化」 を反復する身体、あるいは精神が、「私」 と 「世界」 とが一気に現れる 「場」 やそこにおける 「秩序」 を形成する。
しかし、時に、秩序の無法化、無秩序の制度化のプロセスをも生み出す。
統合失調症」 の機序を知ることで、そのダイナミックかつドラマティックな場面展開を垣間見るのである。
 
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そして、2010年へ。―― 「終わり」 の 「始まり」 あるいは 「始まり」 の 「終わり」。。。

 
とうとう、2010年が明けた。
 
2010年といえば、「2010年宇宙の旅」 をまず思い浮かべる。
スタンリー・キューブリック と アーザー・C・クラーク との事実上の共同作品として、あまりにも有名な 「2001年宇宙の旅」。
その続編に当たる作品である。
 
 

  

 
この小説の中では、前作で モノリス の作用によって 「超人化」 し、実体を持たない 「意識体(エネルギー生命体?)」 となった宇宙飛行士デヴィッド・ボーマンは、遺棄された人工知能コンピュータ、HAL9000 との邂逅を果たす。
HAL9000 は、設置されていた宇宙船、ディスカバリー号とともに破壊され、やがてボーマン同様、実体を持たない 「意識体」 へと変容してゆく。
 
モノリス を創造した存在。これは小説の中でも明らかにされてはいない。
しかし、生命や生物種、その意識、または、それらの集合体である 「文明」 の進化を促進したり、「創造」 したりする 、人知を越えた 「規範」 や 「価値意識」 を備えた存在である。
―― 人類は、その前では哀れなほど卑小である。
 
 
 
 
さて、「モノリス・メーカー」 とわれわれ人類の間にある、この大きなギャップを埋めるための鍵がどこにあるのか。――
この際、良い機会なので、人類の卑小さの 「核」 のようなものに ――、ちらりと触れてみようと思う。
それは 「自己」(わたし(たち)) という観念である。
 
以下に、あるテキストを示す。
30年ほど前に書かれた、岩谷宏 という批評家の 「ロックからの散弾銃」 という著書からの抜粋である。 
 


 
「N」

Nは横断的でなければならない。

Nは、「人核」 を、針でただ一度、深く突つき目覚めさせると同時に
凍りつかせるものでなくてはならない。
 
 
Nは、あらゆる任意の一点において、相対化し多面化するものでなくてはならない。
それは、無限の内的な運動でなくてはならない。
それは、どこにでも、ちゅうちょなく、土足で踏み込むものでなくてはならない。
 
 
Nは、ふてぶてしい、くつろいだ、不良少年であると同時に、
あらゆる人間の時間衣裳を瞬時にして身ぐるみ剥いで、
ハダカで見つめられる、冷酷な視線でなくてはならない。
無限の絶対化と単極化を神とするなら、
Nは、神と丁度正反対のものでなければならない。
 
 
したがって、神が人を人に閉ざすなら、
Nは、人をXに、?に、「ひらく」 ものでなければならない。
Nは、無限運動する消しゴムであると同時に、
あらゆる書かれる線をたくさん引いて行くエンピツでなければならない。
Nは、本物の金さえニセ金に見えてくるほどに技術優秀な、
ニセ金づくりでなければならない。
 
 
Nは、流れる川を恥ずかしく思わせ、濁った水を落ち着かぬ気持ちにさせ、
蒸発へといざなうものでなければならない。
このイメージを言い換えるならば、
「人は、Nによって、自我の(無反省な)絶対性を奪われ、空洞化し、
かわりに、偶然性、相対性、多面性のみを得る」
言い換えれば、いまここで私が私であることと、
(時空の)あるところである人がある人である(あった、あるだろう)こととは同格に偶然である。
言い換えれば、私がその人であることも、その人が私であることも、同等に、あり得た。
Nは、このように、人核の(無限の)核分裂を誘発するものである。
 
 
Nは、自己が自己であろうとする惰性・慣性に対する、絶対的な抑制者であり、
破壊者でなければならない。
ヒトの中でNは、獅子身中の虫ならぬ、虫身中の獅子でなければならない。
Nは、四十億の、ひとつひとつの、中枢を噛み、傷と痛みを与える。 
 
 
Nは、「人間の問題」 を解決しない。
Nは、むしろ、ヒトから、その次の種への進化を準備するのにもっぱら忙しい、
単純な、内的機能として規定される。
その新たな種が構成する社会は、(人間の)ピラミッド型ではなく、
無数の、互いに異なる小さな単位が、ランダムに交流し、
ときにゆるやかに、ときに敏速に、コミュニケーションし続ける、
そのような構造となろう。

 

 


 
人は、無自覚な、無反省な 「自己」 なる観念を知らず知らずのうちに、身裡に 「醸成」 してゆく。
「私」 を絶対視し、ひたすらに 「内閉」 してゆく。
無自覚な者同士もたれあいながら、ソボクな 「自己」 を抱えたままに、
常識」 だの 「世間」 だのという 「仮構」 の中に埋没し、
オジサン、オバサンになってゆくのだ。
 
見るがいい。たとえば、ワールドカップ(サッカー)の馬鹿騒ぎ。
それまで、サッカーの 「サ」 の字さえわからなかった老若男女。
みんなが大騒ぎして、「オ~レ、オレ、オレ、オレ~。ニッポン!  チャチャチャ!!」
 
―― これが、実態ではなかろうか。見苦しいこと、この上ない。
こうしたソボク極まりない感性(慣性)が、時に、津波のようにうねり、時代を戦争へと駆り立ててゆく。
過去の歴史の中で、我々は何度同じような光景を見てきたか。
 
 
―― 岩谷宏 が述べるように (この世界をより棲みやすく、生きやすくするためには)、――
「人間の問題」 を解決しようとあくせくするのは、無益なことなのであろう。
むしろ、人は、自我の 「(無反省な)絶対性」 を放擲し、――
―― 「かわりに、偶然性、相対性、多面性のみを得る」 ―― ことが必要なのだろう。
 
「(時空の)あるところである人がある人である(あった、あるだろう)こととは同格に偶然である」
「私がその人であることも、その人が私であることも、同等に、あり得た」
―― まさしく、自明である。
 
 
そして、――
「Nは、このように、人核の(無限の)核分裂を誘発するものである」
―― いかにも、黙示」 的ではないか。
「その新たな種が構成する社会は、(人間の)ピラミッド型ではなく、
無数の、互いに異なる小さな単位が、ランダムに交流し、
ときにゆるやかに、ときに敏速に、コミュニケーションし続ける、
そのような構造となろう」
これほど、的確に、ミライをアカルく指し示す 「予言」 は、私の知る限り、見聞きしたことがない。
 
 

 

 
さて、2010年宇宙の旅」 のクライマックスのエピソード。
モノリス が無限に分裂、増殖を始め、その(N個の)大群が 木星 を被い尽くす。
やがて、 木星 はその質量を増すことで 核融合 を誘発し、小さな 恒星 として輝き始めることになる。
新たな、「進化」 「創造」 が始まる。。。
―― 岩谷 の 「N」 と、あたかも相呼応するような 黙示―― 否、「福音ではなかろうか
 
 
2010年。果たして、どんな年になるか。
「終わり」 の 「始まり」 であり、「始まり」 の 「終わり」。――
―― それは、すでに、誰かによって、どこかで、「黙示」/「福音」  されているのかもしれない。  
 
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「メメント・モリ」 ―― フランツ・リスト 「交響詩『前奏曲』」 から、「死」 「死にゆくこと」 を想う。

 
 
フランツ・リスト 作曲の 管弦楽曲 に 交響詩前奏曲」 という作品がある。
なんでも、フランスの詩人 ラマルティーヌ の 「詩的瞑想」 の 「人生は死への前奏曲である」 という一節に触発されて作られた曲だそうである。
その楽譜の序文には 「人生には死から響いてくる一番厳粛な音がある」 と書かれていたとのこと。
これは、以前ある知人から聞いた話。私などにはあずかり知らなかった リスト のエピソードだ。
 
 
リスト の作品には 「死」 を思わせる作品が多い。
は、その人生の折々に、いつも 「死」 と 「その後」 とを見つめつづけていた作曲家だったように思う。
 
―― クラシック にはさほど関心が向かないのだが、かの 「ハンガリー狂詩曲」 などを聴くと、その曲調に狂おしいほどの 「グルーヴ」 を感じてしまうのは、やはり、そのパッションの根底に、いわゆる 「メメント・モリ(死を想え)」 があったからなのだろう。
 
 
 
 
「死」 の側から逆照射される 「生」 ―― だからこそ、人生は一瞬の花火のように輝いて見えるのかも知れない。
そして 「死」 をもって、ある意味、絶対的な自由の境地にいたるのだと、私は信じたい。。。 

 
そこで、取り上げられるべきは ――
「死」 ではなく 「死にゆくこと」 ではなかろうか。 
わたしたち、ひとりひとりが、「今」 「ここ」 を生きながら、同時に、実は 「死につつある」 ということ。
そして、ライフイベントの折々の 「臨界点」 のような体験を経て、―― いわゆる 「死に至る病」 に患わされ、「死」 なり 「死にゆくこと」 なりを強烈に意識し、それぞれさまざまに苦悶することになるのであろう。
 
その原点を見つめること ――
その意味の重さを、私は、キューブラー=ロス や ラム・ダス らの著作や、身近な人たちや飼っていたペットたちの 「死」 に直接、間接に触れることで、多くを学ばせてもらった。
そして、それを元に、「臨床的な」「福祉」 の現場に身を置く 「動機」 も育まれていったように思う。
 
「死ぬのは恐い」―― これは、やはり、「本能的反射」 のようなものなのかもしれない。
しかし、裏返して考えてみれば、「死」、そして、「死にゆくこと」 ――。
―― それは、生まれてから死ぬまでの 「ライフサイクル」 においては、「魂」 の成長を促す大きな 「イベント」 なのだと実感している。
 
それどころか、キューブラー=ロス をはじめ、多くの 「先達者」 が述べてきたように、「死」 とは、「大いなるサイクル(輪廻)」 のひとつの 「結節点 」なのかもしれない ―― とさえ感じている(これは、過去の記事でも何度も書いてきた)。
 
「死」 は、もしかすると、「恐怖」 などではなく 「歓喜」 の一瞬たり得るのだろうとさえ思う。―― どんな場合でも。
精一杯生きて、「死にたくない」 と言いながら死んで行くのも、「先に逝くよ」 と淡々と旅立っていくのも人それぞれ。
「死」 は恐怖でありながら、甘美な響きを感受できるような気にもなる。。。

 
いずれにしても、「精一杯生きる」 ことが 「精一杯死ぬ」 ことにつながるのだろうな・・・とも思うのである。
―― 「きれいごと」 かもしれないが。。。それこそ、人それぞれだから。。。
 
 
 
 
超絶技巧の演奏家にして作曲家、フランツ・リスト
その人生にまつわるさまざまなエピソードに触れるごとに、その生き様が、仄見えてくるようである。
彼は常に 「死」 を思い、「生」 と 「死」 の境界へ向かって自らを駆り立てつづけたのではなかろうか。
―― 激烈なほどの 「強度(アンタンシテ)」 の中で生き、「表現/表出」 を企てつづけていたのではなかろうか。
 
案外、わたし自身と近い感性を持っていた人物だったのかな。。。
―― と、改めて親近感をさえ抱いた次第である。 
 
 
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