とうとう、2010年が明けた。
その続編に当たる作品である。
この小説の中では、前作で モノリス の作用によって 「超人化」 し、実体を持たない 「意識体(エネルギー生命体?)」 となった宇宙飛行士デヴィッド・ボーマンは、遺棄された人工知能コンピュータ、HAL9000 との邂逅を果たす。
HAL9000 は、設置されていた宇宙船、ディスカバリー号とともに破壊され、やがてボーマン同様、実体を持たない 「意識体」 へと変容してゆく。
モノリス を創造した存在。これは小説の中でも明らかにされてはいない。
しかし、生命や生物種、その意識、または、それらの集合体である 「文明」 の進化を促進したり、「創造」 したりする 、人知を越えた 「規範」 や 「価値意識」 を備えた存在である。
―― 人類は、その前では哀れなほど卑小である。
さて、「モノリス・メーカー」 とわれわれ人類の間にある、この大きなギャップを埋めるための鍵がどこにあるのか。――
この際、良い機会なので、人類の卑小さの 「核」 のようなものに ――、ちらりと触れてみようと思う。
それは 「自己」(わたし(たち)) という観念である。
以下に、あるテキストを示す。
30年ほど前に書かれた、岩谷宏 という批評家の 「ロックからの散弾銃」 という著書からの抜粋である。
Nは、「人核」 を、針でただ一度、深く突つき目覚めさせると同時に
凍りつかせるものでなくてはならない。
Nは、あらゆる任意の一点において、相対化し多面化するものでなくてはならない。
それは、無限の内的な運動でなくてはならない。
それは、どこにでも、ちゅうちょなく、土足で踏み込むものでなくてはならない。
Nは、ふてぶてしい、くつろいだ、不良少年であると同時に、
あらゆる人間の時間衣裳を瞬時にして身ぐるみ剥いで、
ハダカで見つめられる、冷酷な視線でなくてはならない。
無限の絶対化と単極化を神とするなら、
Nは、神と丁度正反対のものでなければならない。
したがって、神が人を人に閉ざすなら、
Nは、人をXに、?に、「ひらく」 ものでなければならない。
Nは、無限運動する消しゴムであると同時に、
あらゆる書かれる線をたくさん引いて行くエンピツでなければならない。
Nは、本物の金さえニセ金に見えてくるほどに技術優秀な、
ニセ金づくりでなければならない。
Nは、流れる川を恥ずかしく思わせ、濁った水を落ち着かぬ気持ちにさせ、
蒸発へといざなうものでなければならない。
このイメージを言い換えるならば、
「人は、Nによって、自我の(無反省な)絶対性を奪われ、空洞化し、
かわりに、偶然性、相対性、多面性のみを得る」
言い換えれば、いまここで私が私であることと、
(時空の)あるところである人がある人である(あった、あるだろう)こととは同格に偶然である。
言い換えれば、私がその人であることも、その人が私であることも、同等に、あり得た。
Nは、このように、人核の(無限の)核分裂を誘発するものである。
Nは、自己が自己であろうとする惰性・慣性に対する、絶対的な抑制者であり、
破壊者でなければならない。
ヒトの中でNは、獅子身中の虫ならぬ、虫身中の獅子でなければならない。
Nは、四十億の、ひとつひとつの、中枢を噛み、傷と痛みを与える。
Nは、「人間の問題」 を解決しない。
Nは、むしろ、ヒトから、その次の種への進化を準備するのにもっぱら忙しい、
単純な、内的機能として規定される。
その新たな種が構成する社会は、(人間の)ピラミッド型ではなく、
無数の、互いに異なる小さな単位が、ランダムに交流し、
ときにゆるやかに、ときに敏速に、コミュニケーションし続ける、
そのような構造となろう。
人は、無自覚な、無反省な 「自己」 なる観念を知らず知らずのうちに、身裡に 「醸成」 してゆく。
「私」 を絶対視し、ひたすらに 「内閉」 してゆく。
無自覚な者同士もたれあいながら、ソボクな 「自己」 を抱えたままに、
「常識」 だの 「世間」 だのという 「仮構」 の中に埋没し、
オジサン、オバサンになってゆくのだ。
見るがいい。たとえば、ワールドカップ(サッカー)の馬鹿騒ぎ。
それまで、サッカーの 「サ」 の字さえわからなかった老若男女。
みんなが大騒ぎして、「オ~レ、オレ、オレ、オレ~。ニッポン! チャチャチャ!!」
―― これが、実態ではなかろうか。見苦しいこと、この上ない。
こうしたソボク極まりない感性(慣性)が、時に、津波のようにうねり、時代を戦争へと駆り立ててゆく。
過去の歴史の中で、我々は何度同じような光景を見てきたか。
―― 岩谷宏 が述べるように (この世界をより棲みやすく、生きやすくするためには)、――
「人間の問題」 を解決しようとあくせくするのは、無益なことなのであろう。
むしろ、人は、自我の 「(無反省な)絶対性」 を放擲し、――
―― 「かわりに、偶然性、相対性、多面性のみを得る」 ―― ことが必要なのだろう。
「(時空の)あるところである人がある人である(あった、あるだろう)こととは同格に偶然である」
「私がその人であることも、その人が私であることも、同等に、あり得た」
―― まさしく、自明である。
そして、――
「Nは、このように、人核の(無限の)核分裂を誘発するものである」
「その新たな種が構成する社会は、(人間の)ピラミッド型ではなく、
無数の、互いに異なる小さな単位が、ランダムに交流し、
ときにゆるやかに、ときに敏速に、コミュニケーションし続ける、
そのような構造となろう」
これほど、的確に、ミライをアカルく指し示す 「予言」 は、私の知る限り、見聞きしたことがない。
モノリス が無限に分裂、増殖を始め、その(N個の)大群が 木星 を被い尽くす。
やがて、 木星 はその質量を増すことで 核融合 を誘発し、小さな 恒星 として輝き始めることになる。
新たな、「進化」 「創造」 が始まる。。。
―― 岩谷 の 「N」 と、あたかも相呼応するような 「黙示」 ―― 否、「福音」 ではなかろうか。
2010年。果たして、どんな年になるか。
「終わり」 の 「始まり」 であり、「始まり」 の 「終わり」。――
―― それは、すでに、誰かによって、どこかで、「黙示」/「福音」 されているのかもしれない。