DREAMBODY's profile「アカルイミライ」観測日誌PhotosBlogListsMore Tools Help

DREAMBODY DOVE

Interests
宇宙の「大いなる流れ」に身をまかせながら、それでも、静かで、確かな生き方ができたらなあ…。なんてことを日々思いながら暮らしています。基本は「タオイズム」かな。  「タオ」の流れ―プロセスの流れを信頼せよ。

「アカルイミライ」観測日誌

わたくしといふ現象は / 假定された有機交流電燈の / ひとつの青い照明です / (あらゆる透明な幽霊の複合体) / 風景やみんなといっしょに / せはしくせはしく明滅しながら / いかにもたしかにともりつづける / 因果交流電燈の / ひとつの青い照明です
7/1/2009

アンドレイ・タルコフスキー作 「ストーカー」 ―― イコンとしての映像。透かし見える 「聖なる侵入」

 
 
 
 
その作品群は、物語性よりも象徴を優先する、静謐で寡黙かつ流麗な詩的映像美の結晶のようである。
「冗長である」、あるいは 「退屈である」、「観念的で難解である」 と指摘されることも多い。
しかし、寓意性、神話性に富み、それは汲めど尽くせぬその神秘的な深みから、観る者にさまざまなインスピレーションを喚起してくれる。
それは、ハリウッド映画のような派手であからさまで浅薄な映像とはまったく対極的な作品群である。
だから、受けないのだろう。。。 
 
 
改めて、タルコフスキーストーカー」 (1979年。160分) を観た。
こんな古い、重い、長い映画を ―― である
二度、三度、四度・・・一体何度目だろうか。。。
はっきりとした覚えがない。。。
 
 
 
 
ストーリーは ――
おそらく旧ソ連ロシア)と思われる国のひなびた寒村が舞台。
そこには、「ゾーン」 と呼ばれる、立ち入りを禁じられた不可思議なエリアがある。
その奥深くには、そこにたどり着ければ苦悩する人間の切実な願望をかなえてくれるという 「部屋」 があるとの噂があった。
それを耳にして、ある科学者 ―― 《教授》 と 《作家》 が、案内人(《ストーカー》(密猟者という意味)) を雇って不条理で苦痛に満ちた旅に赴く。。。
―― というあらましである。 
 
 
全編を通してまず気づくのは、日常の世界はモノクロ、「ゾーン」 の中での出来事はカラーで描かれていることである。
唯一、「ゾーン」 の外において、色彩がカラーになっているのは、主人公 《ストーカー》 の娘 ―― 不具の少女 ―― が描かれるシーンだけである(これについては後で改めて詳述したい)。
これは 「ゾーン」 という禁断の地が、いかに特別なものであるかを示しているのであろう。
《ストーカー》 の娘の存在についても同様に言えることである。
 
 
タルコフスキー 作品全般に見られるのだが、「水」 や 「火」 「犬」 「廃墟」 が描かれるシーンが際立って見られることも特筆しておきたい。
 
 
 
 
タルコフスキー 作品の中で執拗に描かれる 「水」 に浸食された情景についてさらに言えば、その独特のイメージや質感は、ただ耽美的であるだけでなく、神秘的なほど深く、それでいてさえざえと透徹しているという印象がある。
さらには、「水」 が持つさまざまな象徴やメタファー、寓意性の訴求力も見逃すわけにはゆかない。
 
流れる水。したたり落ちる水。澱む水 ―― 水は、ユング心理学によれば、「無意識」、あるいはその現れである感情、さらには 「の象徴である ――。
流れる水やしたたり落ちる水は、「浄化」 や 「忘却」 を象徴するものととらえられよう。
 
その場面場面にあって異なった表情を見せる 「水」 の存在感は畏れるほどに美しい。。。
 
タルコフスキー 自身の言によれば ――
「私は水が物として好きなのです。なによりも水は、謎めいた物質です。・・・水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。これは地上で最も美しいもののひとつ・・・」 ということである。
 
この映画 「ストーカー」 においても、それは例外ではなく、あまたのシーンにおいて 「水」 は執拗なほどに用いられている。
「ゾーン」 への進入から、廃墟内部の 「部屋」 にいたるまでの詩的映像。
川や湿地、水溜り、雨、屋内にしたたり、染み入る水。。。
何とも言えぬ哀愁。そして寂寥感がそこにある。。。
 
これは、「水」 に限ったことではない。
先に挙げた 「火」 や 「犬」、「廃墟」、そして、シーンの中にさりげなく置かれたさまざまな 「仕掛け」=舞台装置や大道具、小道具にも注意をしなければならない。
 
ストーカー」 の映像の中にも、逡巡する3人(《教授》 《作家》 《ストーカー》)のそばに広がる水溜りの中には折々に数々の意味ありげなもの ―― 注射器、水盤、イクトゥス:キリストの象徴?)、ファン・アイク兄弟の作と言われる ヘントの祭壇画 の一部らしきもの ―― が透かし見える。。。
 
観る者の内面深く、「無意識」 の層にまで及ぶ領域を刺激し、「神秘性」 「神聖さ」 「荘厳さ」 への 「郷愁」 を誘引するこれらの 「エレメント」 は要所要所の映像の中に象徴的に散りばめられ、一切の説明を排して使われる。。。
 
ともすれば、それらは識域の領野をすり抜けて、サブリミナル なレベルで観る者に暗示的なシグナルを送ってくるように思える。
タルコフスキー はこうした手法により、作品の中に神秘的な時空間を創り出しているのではなかろうか。 
 
―― これらの手法からは、東方正教、分けても ロシア正教 の影響下にある文化に色濃く見られる イコン の位置づけと相同的な象徴性、神秘(主義)性を強く感じさせる。
もとい、この作品自体(タルコフスキー のいずれの作品にも言えることだが)、イコン であると言っても良いであろう。 
 
 
さて、後半にさしかかったシーンに目を向けてみたい。
興味深いのは、「ゾーン」 の核心とも言える 「部屋」 にいたる上での最大の関門である 「肉挽きのトンネル」 を通り抜けたその先。
 
 
 
 
砂塵が降り積もったエリアに 《作家》 が一等最初にたどり着いて見出した井戸である。
《作家》 は悪態を垂れつつ、そばにあった石を無造作にその中に投げ入れる。
しばらくたって、その底から水音をともなって反響音が立ち上ってくる ―― 井戸が予想外に深いことがわかる。
―― これは、文字通り底知れないほど深い 「無意識」 の領域 ―― 「集合的無意識」 のようなものを象徴しているようにも思える。
 
 
 
見落としてならないのは、 「部屋」 の入口にいたるその直前、《作家》 が キリストの磔刑 を象徴する 「荊棘の冠」 を発見するシーンである。
 
これら、物語のプロットをたどり、総じて言えることは、このストーリーが、「聖なるもの」 への 「秘儀参入」 を暗示したものであるということであろう。
 
 
この映画では、「ゾーン」、そして、「部屋」 が何であるか、その正体の如何については、最後まで明かされないままに終わる。
「教授」 と 「作家」 は、やっといたり着いた 「部屋」 を前にして、その中に入ることを拒絶してしまったからだ。
噂にあるように、その場所が切なる願いをかなえてくれる 「聖域」 であるかどうかも判然としないままに終わりを迎えるのだ。
秘儀参入」 は成就することなく頓挫する。
 
象徴的、寓意的で謎めいた映像。そして3人の晦渋な会話が延々と繰り広げられるだけで、目を見張るようなダイナミックなクライマックスもない。
 
しかし、ストーリー全体を俯瞰した上で私の心をとらえてやまない理由は ――
禁断の地、「ゾーン」 を通り抜け、「部屋」 にたどり着けるのは絶望した人間だけのようであること (それは、《ストーカー》 が語る ―― よくわかりませんが、ゾーンは絶望した人間を通すように思えます。善悪に関係なく、不幸な者を・・・ という言葉からも伝わってくる)。
そして、「ゾーン」 が備えている 「罠」 によって、《教授》 と 《作家》 がそれぞれに抱える 「絶望的な苦悩」 を、各々に直面させる 「試練」 が与えられたこと ―― それは 《ストーカー》 にとっても同様であった。。
―― である。
 
これこそが、この作品の焦点なのではないかと思う。。。 
 
逆説的になるが、先に、「秘儀参入」 は頓挫した・・・と書いたが、物語を総体的に眺めてみれば、それは実は成就されたのかもしれない。。。
―― 彼ら3人が 「絶望」 を抱えつつ、自ら 「試練」 と対峙したという事実によって 「聖なる神秘」 に触れた ―― からである。。。
 
 
主人公 《ストーカー》 について、もう一言書いておきたい。
彼が自らを 《ストーカー》 として任じたのは、「信仰」 とも言えるほど強烈な希求心なのだ。
彼と他の二人の異なっているところ、それはひとえに、彼が
「ゾーン」 あるいはその中心にある 「部屋」 を神聖視しているという事実であろう。
 
 
ここで、《ストーカー》 の娘 ―― 不具を抱えた少女のことについても書き添えておきたい。
その存在については、「ソフィア」 という概念を抜きにしては語れないように思う。
 
ロシア の自然、風土は厳しい。長く、あらゆるものが凍てつくような冬。ツンドラ や タイガ が延々と広がる大地。
しかし、そこには、自然を征服、支配し、人間の意のままにコントロールしようという 「西欧(西欧的なキリスト教)」 の伝統に見られるような 「自然観」 はない。。。 
むしろ、ロシア の自然は厳しいながらも、反面、地母神のように人間を包み込み、慈しみ、癒す存在として苦しみや痛みを通すことによって、「永遠につながる美」 を顕現するものとして母なる大地への信仰と繋がっている。
ロシア においては、「人間」―「神」―「自然」 の間には一切の乖離はないのである。
 
ロシア の思想・哲学については、さほど詳しくないが、かの地には、19世紀末に現れた哲学者 ソロヴィヨフ に代表される 「ソフィア論」 なるものがある。
これは、もともとは、東方正教 と 新プラトン主義 両方の潮流を汲むもので、神秘主義 の色合いが濃厚である (ソロヴィヨフ 自身、 「ソフィア」 を生涯、三度ほど幻視しているという)。
ソフィア」 は神の叡智であると同時に自然であり、「永遠の女性(永遠に女性的なるもの)」 ――アニマ・ムンディ(世界霊魂)」 の顕現であり、人間との間で苦しみ、痛みを共にし、自然と同化した存在であると考えられる。
―― ちなみに、ソロヴィヨフ の、そして、それ以降の 「ロシア神秘主義哲学」 の根本概念は 「全一」 と称される。これは 新プラトン主義 の 「『一者』 からの 『流出』 の概念から導出されている。。
この体系の中では、「ソフィア」 は、言うまでもなく 聖母マリア であり、 キリスト は、マリア=「ソフィア」=「アニマ・ムンディ」 の子ども、すなわち 「母なる大地/自然の子」 であるととらえられている。
 
こうした思想は、圧倒的に 「ロシア的」 なもの ―― その自然や風土、そこに息づく エートス民俗、そして民衆が抱く 「自然観」
―― その深層に通底しており、観念的ではあっても、決して抽象的な思弁に終始するのではなく、血の通った、生きた、なまなましい現実を表していた。
こうした観点において、哲学や思想は思索することではなく、まさに 「生きること」 そのものに繋がっていたのである
 
前置きが長くなったが ――
タルコフスキー にとって、《ストーカー》 の娘である不具の少女は、この映画における最重要な イコン 的存在であるようにとらえられる。
それは、聖性を伴った、まさに 「ソフィア」 的な存在、いや、「ソフィア」 そのものとして描かれているように思えてならない。
―― 神の叡智であると同時に自然であり、「永遠の女性(永遠に女性的なるもの)」 ――アニマ・ムンディ(世界霊魂)」 の顕現であり、人間との間で苦しみ、痛みを共にし、自然と同化した存在。。。
生まれながらに 「痛み」 をその身に引き受け、淡々と厳しい自然の中に在りつづける。。。
ラストシーンにあって、彼女は ベートーベン の 「第九」「歓喜の歌」 が背後に流れる中で チュッチェフ の詩を静かに唱える。
その詩は、内面に熱情を秘めながらも、ほの暗い悲壮感の漂う神秘性に彩られた内容だったように思う。
そうしながら彼女は、超自然的な 「力」 を使う。
いともたやすく、憂いとも退屈ともとれる仕草で、無表情な顔から鋭い眼差しを向けながら。。。
 
 
 
ゾーンの 「こちら側」 で彼女のシーンだけなぜ映像の色彩がカラーなのか ―― これはもう答えるまでもないだろう。
―― そういうことなのだ。。。 
 
 
もう少しだけ。。。蛇足になってしまうかもしれないが。。。
 
ゾーンにまつわる描写から最初に連想されるのは、前世紀初頭にシベリアで起こった ツングース爆発事件 である。
かなり強烈で巨大な爆発であったにもかかわらず、その全貌は今も謎に包まれている。
作者、タルコフスキー あるいは、原作者 ストルガツキー兄弟 がそれを意図したのか否かはわからない。。。
 
そして、あの忌まわしき チェルノブイリ原発事故 の匂いもこの映画の描写から漂ってくる。
もちろん、公開されたのは事故の7年前なので、作者をはじめ誰にも知る由はない。
しかし、禁断の地、「ゾーン」 を取り巻くシチュエーションは、あの事故がもたらした 「影」 をあまりにも 「リアル」 に暗示してはいまいか―― 映画のラスト近く、娘と 《ストーカー》 が沼地の岸辺を散策するシーンには、はるか彼方に発電所らしき建造物が映し込まれているのが見て取れる。。。
―― ここまで書いて、「アレクセイと泉」 というドキュメンタリー映画を想起した。放射能に侵された地に沸き出る清浄な泉水の神秘、そしてアレクセイという青年のすがすがしいまでの純粋さに、またしても 「ソフィア」 的な聖性を感受してしまった。。。
 
 
ストーカー」 という寓意と謎のベールに包まれた映像作品を介して、過去と未来が通じ合う。
「禁断の地」 そして 「爆発」―― その痕跡。。。
まさしく、神秘の大地、ロシア における 「秘儀参入」 の 「形」 を 「黙示」 してはいまいか。。。
 
 
タルコフスキー とは、ロシア 的 エートス の中で、忠実に、敬虔に自らの 「使命」 を果たした映像詩の 黙示録 的 預言者予言者)であったのかもしれない ―― と思うのであった。 
 
 
6/26/2009

「エポケー」 する私 ―― 「ポケット」 した何も起こらない、ただただ無意味に流れる日常。

 

 
一日中、閉じこもってただただ臥せって本を読み流すか、ヘッドフォンで音楽を聞き流している。
とにかく、「流す」 ことのために 「流す」 生活がだらだらと続く。。。
それはそれで心地よい。
 
休むこと。うたた寝ること。
 
何も起こらない。ポケットした日常。その連続。。。
 
 
ただただ突っ走り、仕事も生活もジャムって、オーバーヒートした末、とりあえず、み~んな 「ポケット」 に放り込んだ。
だから 「ポケット」 しているんだろうな。。。
 
これでいいのかって焦りや不安を感じることもあるが、それはそれで、あらゆる判断を留保してしまっている。
つまり、エポケー」 ってやつ。
だから 「ポケット」 しているんだろうな。
 

 

なにもしないこと。とにかく。食って寝て、ひたすらだらだらgdgdする。。。
こんだけ。こんだけなんだよ。
 
まぁ。今はこんだけでいっか。。。
頭が動かない。。。働かない。。。
 
 
でも、なんか、アンドレイ・タルコフスキーの 「ストーカー」 やら、アンジェイ・ブラウスキーの 「ポゼッション」 やらの古いビデオなんぞを棚の奥の方から探し出してきて、観ようとしている。
 
 「ポゼッション」 にいたっては、過去、この映画をあまりにも真剣に(食い入るように)根をつめて観入ってしまったがために、
イザベル・アジャーニ演じる主人公アンナの狂気がかった振る舞い ―― その圧倒的なアブジェクシオン ―― にノックアウトされてしまい、
パニック障害の引き金を引いてしまった ―― という私にとっては 「いわくつき」 の作品である。
 
さぁ、どうなってしまうのか。。。
いまさら、知ったことではない。。。
 
じゃ、また。。。
 
 
6/20/2009

「ストレス耐性(脆弱性)」ってやつ ―― へたれな私がへたれな頭でこねくりまわした「ストレス」考

 
前回でもちらりと触れたが、現在 「休業中」 である。
 
業務の過酷さ、とめどなく先の見えない重圧に抗しきれず、それによる過度な 「ストレス」 とやらにやられてしまったらしい。
つくづく私は、いわゆる 「ストレス耐性ストレスに対する脆弱性」 が低いのだなぁ。。。
「へたれな奴だなぁ」 と痛感している次第。。。
 
 
「四本の樹」 エゴン・シーレ 1917年
 
 
ということで、今回は、「ストレス」 についてちょこっと調べてみた。。。
 
ストレスの身体への影響を初めて体系的に説明したのはハンス・セリエである。
彼の学説によると、生体がストレスの原因となる刺激(ストレッサー)を受けた時、それに適応しようとして体内に一定の反応が起こるとされる。
これを 「一般適応症候群汎適応症候群」 と呼び、全身に渡る場合を全身適応症候群と称した。

全身適応症候群の反応は大きく3期に分けられる ―― そうな。。。
 
まず、ストレッサーにより身体が緊急反応する 「警告反応期」 と呼ばれる段階があり、「ショック相」 と 「反ショック相」とに分けられる。
前者は、ショックに対して適応できていない段階で、体温・血圧・血糖値の低下、筋緊張の低下、血液の濃縮、急性胃腸潰瘍発症などが見られる。
後者は、ショックによる生体防衛反応が高度に現れる段階で、副腎肥大、胸腺リンパ組織の萎縮、血圧・体温・血糖値の上昇、筋緊張の増加などが見られ、生体の適応現象が始まる段階である。
 
さらにストレスが続くと適応反応は 「抵抗期」 に入る。この段階では持続するストレスと抵抗力とが拮抗し生体防衛反応は完成を見るが、消耗が進むと適応力は徐々に低下を辿る。
 
最後の 「疲憊期」 では、適応エネルギーの消耗からストレスと抵抗力のバランスが崩れ、再び 「ショック相 」に似た徴候を示すことになる。
体温の下降や胸腺・リンパ節の萎縮、副腎皮質の機能低下等が起こり、死に至る場合もあるとされる。
 
これらの過程で見られる諸々の身体症状は、ストレスに対する適応反応によって恒常性維持機能を支える自律神経系および内分泌系の働きがバランスを失うことで生じると言われる。
さらに、神経系免疫系と密接に関連しており、ストレスの影響によって抵抗力が弱まり感染症等の疾患にもかかりやすくなることも指摘されている。
 
ふ~む。。。なるほどぉ~。。。
 
 
さて、このセリエの学説によるストレスが身体にもたらす影響を示すモデルは、「説明仮説」 としては非常に有益なものであろう。
ところが、このモデルに限らず、ストレスと身体の関係を示す仮説に対して短絡的な捉え方がなされると、
ストレスが原因で、結果として病気や身体的不調が起こる」 といった考え方が一般通念として通用してしまう可能性が大きくなってしまうのではなかろうか。。。
 
本来、ストレスと身体の関係はそれほど単純なものではないと思われる。
ストレスとは一様なものではなく、個体の 「感受性」 によっても差異がある。
ストレッサーの種類や質、それによって生じるストレスの強さに対しても顕著な個体差が、当然のことながら、見られるはずである。
これは主として、生来の精神的・身体的資質と生育過程で培われたストレスへの対応力(ストレス耐性)によるものであろう。
 
これらさまざまな要因が複雑に絡み合って相互作用を来たし、身体への影響にも多様な差異が生じてくるように思う。
従って、ストレスが身体に及ぼす影響の機序を短絡化して捉えるのではなく、多様な要因が複雑に絡み合い相互作用を来たしながら生じるといった、「関係論」 的、 「システム論」 的な捉え方をせねば、その因果関係を真の意味では解明することができないのではなかろうか ―― と思うのだが。。。
いかがなものだろうか。。。
 
   「二つの頭蓋骨」 レオノール・フィニ 1950年
 
 
相変わらずへたれな調子で、ぼ~っとしつつ書いている。。。
課題をこなすために生半可な理解でもって学生が書いた中途半端なレポートのようだ。。。
こなれていないし、歯切れが悪い。。。なぁ。。。
 
まとまりのない生硬でわかりずらい記事になってしまった。。。
あぁ。。。エネルギーが枯渇しているのかなぁ。やっぱり。。。
 
 
6/13/2009

「健康」ってなんだろうか ―― 深層から湧き上がってくる 「メッセージ」 とただ静かに対峙すること。

 

 
ここのところ、心身の不調をきたし、仕事を休んでいる。
身体中のあちこちが、オイル切れになって、きしんでいるような感じだ。
もちろん、判断力も認識力も思考力もうまく働いてくれない。。。
疲れきってしまったようだ。
 
これは、一般的には 「健康ではない状態」 つまり、「不健康」 と言うのであろう。 
 
 
ところで、健康ってなんだろうか。
 
世界保健機関WHO設立(1948年)当時の憲章前文にある定義によれば ――
 
身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない
―― 少々回りくどいが、こうした説明になっている (回りくどい理由は後述)。
この定義には、健康に関連する権利が不可分かつ相互依存であることを示している。
 
さらに、同機関の1999年の総会では健康の定義として ――
 
健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない
―― という提案がなされた。これはまだ案件の段階であり、正式な定義として採択されたものではない。
(興味深いのは朱字で示した部分である。1948年当時のものと比べてみればわかるが、これは新たに付加されたものである)
 
 
 
 
健康(ヘルス:health)とは、語源をたどると、ギリシャ語の 「ホロス」 すなわち 「全体」 とか 「完全」 を表す言葉にある。
同じ語源から派生した言葉には重要なものが多い。
特筆すべきものとして、「ホール:whole(全体)」 や 「ホーリー:holy(神聖な)」、「ヒール:heal(癒える)」 が挙げられよう。
 
つまり、以上からすれば、「ヘルス」 はもともと 「完全無欠な神聖なる全体」 のことで、「みずから癒える力を持つ状態」 である。
「全体」 とは文字通り宇宙全体、「切れ目のない連続的な時空」 であると言っても過言ではあるまい。
それが 「唯一無二の全体であるからこそ神聖だ」 と、古代ギリシャの時代では考えられていたのではなかろうか。
 
ところが、時代を経て ―― 殊に西欧近代的な 「機械論」 的価値観の席巻によって ―― その全体に無数の切れ目が入れられ、
限りなく細分化、分断化がなされた結果、近代以降の 「健康」観なるものは極度な視野狭窄を起こし、WHOの定義にも見られるように、健康とは 「病気ではないこと」 という否定的な言葉でしかそれを語れなくなってしまったように見える。
 
―― WHOの新定義(案)で、見落としてはならない、評価すべき点は、「健康」 を 「霊的」 で 「動的」 なものととらえようとしていることである (これは論旨とは外れるので、これ以上深入りはしない) ――
 
 
 
そこには、「病気」 や 「」 を敵視して、それと勇敢に戦って勝利することが 「善」 であるという観方が存在する。
これはいわゆる、主客分離の 「二元論」 的な構えから生じているものであろう。
 
―― 今必要なのは、こうした態度、姿勢を改め、「病気」 と 「健康」、「生」 と 「」 を、「いのち」 という一つの連続体の、それぞれ異なったステージとしてとらえること。
 
そして、「身体症状」 を身体からの、何らかの 「メッセージ」 として肯定的に受け止め、自らの 「生」 の営みを意識的に変えること(「気づき」)によって 「治癒力」 の発動を促すこと。
 
いわゆる 「病人」 だけではなく、すべての人間が、さらに 「健康」 になるための働きかけをすること。
―― ではないだろうか。
 
 
なぜなら、「聖なる全体」 と一体であることに 「気づく」 充足感と、「生命の創造性」 に本来的、根源的にともなう 「生きるよろこび」 を実感することをもってこそ、主客分離の 「二元論」 から自由な、真の意味での 『健康』(健全性) につながるものであろうからだ。
 
 

 

 
今は、よれよれでボロボロになってしまっているこの身。
病気」 と診断されてしまっているこの身。
 
勇敢に戦って勝利するのではなく、その深層から ――霊的」 に 「動的」 に ―― 湧き上がってくる 「メッセージ」 とただ静かに対峙し、みずから癒えるために 「今」「ここ」 にしっかりと立っていようと思う。
 
 
 
6/7/2009

路上生活者への内面的援助について。痛感していること。。。

 

 
今回は、路上生活者を相手にした相談業務において、最近つくづく感じることについて書いてみたい。
 
 
路上生活者の中には、さまざまな障害を負っているケースが多い。
 
殊に、軽度・境界域の知的障害を持っている場合が少なくない。
また、そうした障害がゆえに生活の上でさまざまな困難を抱え、さまざまな救済の網からどんどん渡ってこぼれ落ち、何度も繰り返し路上生活に舞い戻ってしまうという実態がある。
―― 私が携わっている相談所現場にも、そうした利用者がかなりの割合で来所してくる。
 
 
路上生活をやむなくされる、そうした障害当事者におおむね当てはまる特徴として、「自己評価」 や 「自尊感情」 の顕著な低さがあること、それに付随し周囲の無理解 (「怠惰である」 とか 「だらしがない」 など) もあって失敗体験を積み重ね、さらに 「自己評価」 や 「自尊感情」 を低めてしまうという悪循環に陥ってしまい、なかなか路上生活という境遇を抜け出せなくなってしまうというパターンも見られる。
 
さらには、それが原因で 「」 などの精神神経症状や依存症等の 「二次障害」 を助長し、ますます事態を悪化させてしまうという機序も明らかである。
 
かかわりの面では、当事者のマイナス面のみではなくプラス面の評価をこそ、むしろ大事にすること。
そして、「事実に基づいた支援」 を徹底することや 「関係を途切らせないこと」 の重要性、「自分がされて不快なことは相手にしてはならない」 等、援助の上での姿勢が肝要になる。
 
ただ、当事者が路上生活をしているということから、実際面でのそうした支援は困難である。
 
ありきたりな言い方になるが、当事者のマイナス面のみではなくプラス面の評価を大事にすること、「事実に基づいた支援」 を徹底すること、「かかわり」 を切らない/途切らせないことの重要性等々、日々の業務で、わかっているつもりでも、ついついなおざりになってしまっている、援助者にとって最も重要な 「構え」 の原点 ―― それを忘れてはならないと思う。
 
 
社会保障や労働政策など政治・制度面の改革、充実の必要性もさることながら、実際面での援助の現場における 「スキル」 や 「メタスキル―― 「構え」 をさらに洗練させてゆく必要性を痛感しているこの頃である。
 
 
 
5/30/2009

「体外離脱」体験?―― ヘミシンク効果か・・・自在にコントロールできれば。。。

 

 
数日前の早朝のこと。
午前4時近く、かなり眼が冴えた状態で覚醒。
その後、再度入眠するかどうか迷ったが、どうせ今日は日曜日だし…ということで、
ヘミシンクCD「Hemi‐Sync Meditation」をヘッドフォンで聴きながら横になった。
しばらく心地よく耳を傾けていると寝入ってしまったようだ。
 

 

 
その際、夢を見ていたようである。
どこか人里からは離れた建物の中にいて、知り合い(と言っても現実に知り合っている人たちではない)同士と集って、何か目的を持って合宿のような催しをしているようなシチュエーション。
詳細な内容は失念したが、気づくと再び覚醒していた。
 

と、突然、身体全体がブォーン、ブーォンという振動に包まれ、みぞおち辺りを引っ張られるような感覚に襲われる。
―― 以前に何度か体験している 「体外離脱体験」 と同様な感覚である。
以前は体外に完全に 「抜け切る」 までにはなかなか容易が行かなかった。
「どうなってしまうのだろう」 という恐怖が強かったからである。
ところが、今回はそうした恐怖感はかなり薄れており、すんなりと抜け出すことができたように思う。
隣室や階下で眠る家族のところまで行って話しかけてみようかと思うと、壁をすり抜けていたようだ。
到達した隣室や階下の様子はぼんやりしており、実際の部屋の内部とは異なったイメージであった。
家族に呼びかけるまで行かずに、気がつくと 「戻って」 いた。 
 

再度挑戦しようとすると、今度は首の付け根の後ろ側辺りから抜け出す。
案外自在にできるものなのかと少々驚く。
再び、隣室か階下の家族のところへ行こうと試みるも、気がつくとどうも先に見ていた夢の中(?)に入り込んでしまったらしい。
 
夢の中では、合宿中で私はどうやら疎外されているような立場にあり、居心地の悪い思いをしている。どうにもいたたまれないといった感情に包まれていた。

再び気づくと本来の自分の中に戻り覚醒する。これが夢だったのか、別の世界(パラレルワールド?)にいる自分のところにトリップしてきたのか判別できない、強い戸惑いを感じた。
その後、数回にわたって離脱を試みようとしているうちに、今度は本格的に入眠していたらしく、気がつくとすでに起床する時刻を回っていた。
 
 
 
過去の体験においても意識状態は清明で、体験そのものの実感としても比較的鮮明な印象が残っているのだが、
今回はずば抜けてクリアで、自らのコントロールがより自在になっていたように思う。
不思議なのは、この体験後(起床後)、心身ともに爽快な状態になっていることである。
 
 
さて、宗教シャーマニズムなどの神秘体験瞑想や薬物などで誘発される 「変性意識状態」 などもそうだが ――
こと、こうした体験は 「トンデモ」 的な怪しいエピソードととらえられがちだが、体験というものは、その本人 ―― 当事者にしか属さない事柄であるので、往々にして否定的にあしらわれ、排除させられてしまうということが多い。。。
当人にとっては、体験として 「事実」 であるのであるから、それをまずは判断せずに受け取められるべきでは ―― と考える。。。のだが。。。
 
 
それはそれとして、私個人としては、かなり強烈な 「クオリア」 ではあった。
コントロールの 「精度」 が上がれば嬉しいのだが。。。

5/23/2009

この世界に存在するものにはことごとく何らの実体もない。そして、常に変化し続けている。―― 「空」 なる実相に目覚めているということ。。。

 
時折、思い立って仏教の解説書などを読むことがある。
文字通り、抹香臭く、独特の用語使いから、その晦渋さに戸惑うこともあるが、
日々の雑事に思い惑わされ、疲れきっている時など、一服の清涼剤を得たような爽やかな気分になる。。。
 

 

 
さて、仏教、殊に大乗仏教の面白さは、その 「論」、いわゆる 「」 という概念の中に集約されていると思われる。
―― このトピックは以前にも何度か取り上げたことがあるが、今回は改めてとらえ直してみたい・・・。
 
」 というのは、端的に言えば、
① 「この世界に存在するものにはことごとく何らの実体もないのだ
      ―― という考え方
そして ――
② 「あらゆるものは、決していつも同じ状態としてとどまることはない
      ―― という考え方
―― である。
 
これらは、「生々流転」 とか 「輪廻」 という言葉にも表されている。
 
この二つの考え方からすると ――
物事にははっきりとした実体など存在せず、常に変化し続けている
―― ということになる。
 
そして、そこから人間が生きる営みの中で抱えることになるあらゆる苦悩がはじまる ―― というのが仏教の基本的な教えである。
 

 

 
論」 と言うのは、要するに、ただただ 「ない」 ということを説明していることになる。
これは、いわゆる 「否定論」 の形式を取っており、「一つではない」 「同じではない」 など、「ない」「ない」「ない」・・・という形で、すべての対立的な事柄をことごとく否定するという論法を取る。
 
―― これは、「般若心経」 の中にも 「不異不異即是即是」 「不生不滅、不垢不浄、不増不減」 などの形で盛り込まれているので、イメージはとらえ易いだろう。
 
それでは、説かれているように、何もないのだとしたら、この現象世界の実相には何があるというのだろうか。
 
―― 「実体」 なるものなど何もなく、あるのはただ 「かかわり」 だけである。
 
「もの」 はなくても、「かかわり」 や 「関係」 の結節点の総体を示す 「構造」 や 「場」 のようなものはあるというように 大乗仏教 は説いてゆく。
さらに、「かかわり」 を媒介する 「場」 はあるが、「かかわり方」 は決して固定したものではなく、その時々で、瞬間瞬間に現れる出来事・現象というような形を取って 「かかわり」 なるものは連綿と生じつづけてゆく。
「かかわり」 を通して、(一見すると) 偶然の出来事・現象が起こり、その影響が四方八方に散らばると、そこからさらにまた違う出来事・現象が 「かかわり」 を通して生じてゆく。。。
これらは、いわゆる 「因果論」 的に生ずるのではない。
そうではなく、この世界全体がさまざまな出来事・現象が起こってパッパッと、きらめくように、閃くように、ほとんど同時に存在する ―― というように現れる・・・のである。
これを 「縁起」 という。。。
 
これが 「」 というものの考え方である。
 

 

得てして、人間の生き方をつきつめてみてゆくと、「空間」 の中に何か形のある 「もの」 を創り出し、それを 「時間」 の流れの中で積み上げてゆこうとするものである
それは生きる喜びであり、生きていることの 「成果」 なるものにつながってはいる。
が、しかしまた、いや、それだからこそ、「時間」 と 「空間」 とに束縛されて自由ではなくなるのであろう。
時間」 と 「空間」 の束縛とは 「因果」 に囚われるということである。
空間」 の中で 「時間」 の流れに身をゆだねつつ、原因→結果 (因果) の呪縛に身をやつし、その枠組みの中から一歩も抜け出せない ―― という、究極の 「不自由」 の中でわれわれは苦しみ惑う。
 
そうではなく、実際は、「空間」 なるものも 「時間」 なるものも 「ない」 ―― 「存在しない」 のだということ。
あるのは、「かかわり」 の 「場」 の限りない連続、全宇宙が一体化した、「時間」 や 「空間」 の 「くびき」 をさえ一切超越するような 「縁起」 の世界なのだということである。
 
 
人間が創り出した 「因果」 (「時間」 「空間」) の呪縛の中に身を置きながら、「自由」 であろうとする生き方を、仏教は 「」 や 「縁起」 という概念をもって万人に伝えようとしているのだ。
 
 
「覚醒」 あるいは 「気づき」 なるものとは、こうした 「実相」 に目覚めていることなのであろう。
 
わたしも、「囚われ」 の中に身を置きつつ、かくありたい。心のどこかでは、いつも目覚めていたい。
苦悩や惑いの嵐に見舞われながらも、目覚めていたい。そのことに気づいていたい。
 
―― 切にそう願うのだが、「囚われ」 ―― 因果」 の呪縛は、深く、そして重い。。。
 
「くびき」 と対峙しつつも、軽々と、そして爽快に乗り越えてゆきたい。。。
 
 
5/16/2009

「引きこもり」 って大切なプロセスなのかも? ―― 「引きこもり」 の時代に思う。

 

どんよりとした曇った、ちょっと肌寒い土曜日の午後。
 
疲れもたまっているようで、計画していたサイクリングも中止。
買い物も中止。
 
ここのところ、またしても引きこもり気味。
他人との接触がめんどくさくなっている。これは、普段の仕事のせいだろうなぁ。
日々、ホームレスの相談 ―― 支援で、かなり重い話ばっかりを聞いていると、どうしても外界をシャットアウトしたいという反動が出てしまうのだろう。。。
 
 
他者との関係性を忌避して、「じぶん」 という内世界の中で 「じぶん」 自身との関係だけで 「わたし」 を自己完結させようとする
しかし、もともと人間というのは 「関係性(かかわり)」 の中でしか 「じぶん」 という存在を確かめることができない。
 
結果、そこにさまざまな齟齬が生じてくる。
摂食障害や家庭内暴力やさまざまな依存症など。
 
他者とかかわる際に必要なコミュニケーション・スキルや、そもそもの 「構え」 やモチベーションなどというものは、肉体の筋力と同様に、使わないでいるとどんどん萎縮してゆく。なえしぼんでしまう。。。
相手の思いや気持ちを捉え受容する感受性さえ、どんどん鈍り干からびてゆく。
(あまり使いすぎてしまっても、磨り減ってしまうんだろうけどね。。。むしろ、こっちの方が問題かも。。。)
 
とは言え、人間の能力というものは 「可塑性」 ってやつを持っているから、それなりの時間とエネルギーを注いでやれば、元に戻すことは可能なんだろうな。。。
 
 
わたしは、「引きこもり」 が人間のあり方として正しい状態ではないといっているわけでは決してない。
ある時期、人によってそれぞれ多様な現れ方はするであろうが、多かれ少なかれ、だれもが 「引きこもり」 という状態を体験するのだと思う。
成長の過程で、あるいは、「じぶん」のバランスを調整するために、さまざまな形で、人間は引きこもる。
むしろ、「引きこもり」というのは必要なプロセスなんだ思う。
 
だから、「ニート」 なんていう現象も、社会全体というマクロな局面においても、ひとりひとりの 「わたし」 というミクロな局面においても、ごくごく自然で、あったりまえなプロセスなんだろうと思う。
 
引きこもって内に向かうっていうことに対しても、だから、もっと長い目、広い目、柔軟な視点で見守るぐらいの余裕があってもいいかも。。。
 
それでこわれるぐらいなら、この社会はそれだけのもんなんだよ。たぶん。
 
 
「スローライフ」 なんて言葉もあるけど ――
それぞれのライフサイクルの中で見たら 「引きこもり」 さえも、「スローライフ」 の中の一過程に位置づけてもいいんじゃないかな。
広~い意味で言ったらさ。。。
 
 
まさしく、現在、大きな不況の最中にあって、政治や経済活動から何から、社会全体が、それこそ引きこもっているような状況に
あるように思う。
折りしも、新型インフルエンザがパンデミックを起こすやも ―― という時勢でもある。。。
外向きに拡張志向でいたものが内向きに縮小志向に変化しているのであろうか。
今はこれでいいのかもしれない。
まさしく、歴史の大きな転換点にいるのかもしれないんだからさ。。。
 
こんな時期も必要なんだよ。絶対。
 
 
 
みんな、どんどん引きこもれ。
わたしも、もっともっと引きこもるからさ。。。
 
 
5/9/2009

某古本チェーン店で105円本を買い漁る。―― 懲りない 「積読」者。

 
ゴールデンウィークは初っ端から飼いモルの死のショックで沈みきった、引きこもりがちな一週間となった。
所在無く、暇に飽かして、最寄りの某古本チェーン店〇〇〇オフで105円本を買い漁る。
ところが、結構、これがイケテいたのだ。なにしろ、105円なんだし。。。
 
 
  
 
少子化により廃校となった世田谷区の池尻中学校の校舎再利用で始まった、新しい「学び」のスタイルを提案するスクーリング・パッド。一流たちが本音むきだしで語った、「仕事」についての熱くて切ない講義の記録。(「MARC」データベースより)
――世田谷ものづくり学校」 で行われた講義集。社会の第一線で活躍する、特にクリエイティブ畑の方々の生の声による実践論。タイトルも面白いのでついつい買ってしまった。
 
 
  
 
メディア環境を生態系としてとらえ、メディアコミュニケーションに向けた働きかけの新しい形を探る。自筆の図や絵を使いながら、多様でしなやかなメディア実践へと読者をいざなうスケッチブック。(「MARC」データベースより)
―― ディア・リテラシーの問題、地域や市民を巻き込んだメディア作り等々、メディア環境を 「生態系」 としてとらえる興味深い一冊。自筆のアイデア・スケッチが散りばめられた、これもメディア環境作りの実践論のようだ。
 
 
 
根拠のない自己肯定、コミュニケーション能力の欠如、社会的サポートの対象にもなりきれず、個人化する社会の中でこぼれ落ちていく。これまでの若者の変化とは明らかに 「質」 が違う 「絶対弱者」 という若者たちについて考える。(「MARC」データベースより)
――社会化」 という社会学用語があるが、生きる営みの中で、さまざまな要因から孤絶されざるを得ない事態にさらされる、現在の若者たちの姿を 「臨床的」 な見地から描出しようとする労作のように思える。これもタイトルに惹かれてつい手が出てしまった。
 
 
 
若者たちはなぜ右傾化するのか。皮肉屋の彼らはなぜ純愛にハマるのか。あさま山荘事件から、窪塚洋介、2ちゃんねるまで。多様な現象・言説の分析を通し、「皮肉な共同体」 とベタな愛国心が結託する機制を鋭く読み解く。(「MARC」データベースより)
―― 最近、さまざまなメディアに露出することの多い若手の社会学者の一人、北田暁大サブカルチャーの変遷をサンプリングしつつ社会史的な視点から現代日本社会を分析する・・・80~90年代の無自覚な 「消費社会的シニシズム」 への対抗‐実存的な 「反省」 として、「ネット右翼」 などに代表される 「ロマン主義的シニシズム」 ‐現代の 『ナショナリズム的風潮』 を位置づけようとするといった意欲的な試みだが・・・果たしてそれが成功しているか否か。 
 
 
  
 
ウヨクとサヨク。命がけで闘い、求めているのはどちらも平和な社会。なのに仲良くできないのはなぜ? 両方の活動を経験した著者が、学校では教わらない右翼左翼テロ革命の歴史や現状をとことんかみ砕く。現役活動家6人への取材も収録。(「BOOK」データベースより)
―― 著者、雨宮処凛は 「反貧困ネットワーク」 のスピーカーとして、あるいは自らの赤裸々な過去をカミングアウトしつつ、さまざまなメディアを通じて現代社会に警鐘を鳴らす 「活動家」 である。ところで、雨宮のスタンスというのも、北田が 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 で取り上げているような 「ロマン主義的シニシズム」 の流れに位置する・・・と言ってしまって良いのだろうか。。。ちなみに、この本は、「14歳の世渡り術」 シリーズの一冊として書かれている。
 
 
    治療島
 
目撃者も、手がかりも、そして死体もない。著名な精神科医ヴィクトルの愛娘ヨゼフィーネが、目の前から姿を消した。死に物狂いで捜索するヴィクトル、しかし娘の行方はようとして知れなかった。4年後、小さな島の別荘に引きこもっていた彼のもとへ、アンナと名乗る謎の女性が訪ねてくる。自らを統合失調症だと言い、治療を求めて妄想を語り始めるアンナ。それは、娘によく似た少女が、親の前から姿を隠す物語だった。話の誘惑に抗し難く、吹き荒れる嵐の中で奇妙な“治療”を開始するヴィクトル、すると失踪の思いもよらぬ真実が…2006年ドイツで発売なるや、たちまち大ベストセラーとなった、スピード感あふれるネオ・サイコスリラー登場。(「BOOK」データベースより)
―― ここ最近は、小説というと、ほとんど手に取らないのだが、タイトルとチラ見した解説に惹かれて購入。自称、統合失調症の女性と精神科医の 「治療」 を介したせめぎ合いの過程をスリリングに描いているというので期待できる。この手のストーリーはスキだ。
 
 
 
現代に増殖を続ける自称 「心の病」 の患者たち。「うつ病」 「アダルトチルドレン」 「PTSD」 「トラウマ」 「摂食障害」…。果たしてそれは本当の病なのか? 世に騙られる精神病の、偽りの仮面を剥ぐ。その真の姿を赤裸に描いた、精神医療最前線。(「BOOK」データベースより)
―― こと精神疾患やそれに付随する精神面の諸症状というものがいかに 「恣意的」 に扱われるか。。。来診者の中には医師を手玉にとって、自分に都合の良い 「診断」 を手中にするということもあるし、社会的合意を得るために 「政治的」 に犯罪や社会的事件の当事者に対して、対社会的に恣意性の高い 「診断」 を誘導してしまうなどということもあるように思う。その虚妄に眼を向けさせてくれる意欲的な好著であると思う。
 
 
 
文学宗教哲学医学を究めた人々が語り合う“生きる”智慧――「生」 と 「死」 を探究する達人たちの知恵に学ぶ。
芥川賞作家であり、現役僧侶の著者玄侑宗久が、五木寛之京極夏彦らの作家や、医師、宗教家、学者と語らい、現代人の行き方を深く問う。(「BOOK」データベースより)
―― 生きること。死にゆくこと。宗教。信仰。この時代のこと。現代の賢哲との対話を通して、「今を生きることの意味」 についての実に味わいのある深い思索へと誘ってくれるように思う。 
 
 
 

神秘思想家、グルジエフの半自伝的著作。青年時代に始まる東洋各地の遍歴と冒険の物語。

―― 20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。欧米の一部の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。人間の個としての成長との関係での 「ワーク」 という言葉はグルジエフが最初に使ったものであり、近年ではもっぱら性格分析のツールとして使われている 「エニアグラム」 はグルジエフが初めて一般に知らしめた。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。(Wikipediaより)
 
 
 
 
しつこいようだが、今回買い漁った本はなにしろぜんぶ105円 !!!
なんか、すごく得した気分である。
 
 
ところで ―― 私自身は濫読者を標榜するが、読書量も読むスピードもさほど長けているとは言えない。むしろ、遅読であるし、読書に充てる時間も少ないのではないかと思う。
―― それでも、集めてしまうのだ。おまけに、片付けられない ―― ときたものだ。
これは 「習性」 のようなものでどうしようもない。むしろ「積読」者と言っても良いかもしれない。
困ったものだ。
 
 
 
5/4/2009

いとしいものとの別れ ―― ふたたび

 
5年ほど前から同居しているモルモット。。。
頭にロゼット(つむじのようなもの)がある 「クレステッド」 という種類である。
当初は、メスの1匹のみだった。まだ生後4ヶ月ほどだった。
「リン」 と名付けた。
 

 
  
 
 
驚いたことに、彼女はすでに身ごもっていた。
その2ヵ月後、3匹の仔が生まれた。
6月末のある日の朝のことだった。
丸い、手のひらにおさまるほどの小さな生き物がケージの中を走り回っていた。
思いもよらないことで、心底驚いたことを覚えている。
 
メスが2匹、オスが1匹。それぞれ 「キナコ」 「ユイ」 「ゴマ」 と名付けた。
さすがに4匹を飼うのは難しい。困った末に、やむなく 「キナコ」 を里子に出した。
しばらくの間、残った3匹との生活がつづいた。
 
 
それから3年半ほど経った一昨年の10月末、突然オスの仔 「ゴマ」 が、「腎機能不全」 で逝った。
 
その後、さらに1年半、残されたお母さんモルの 「リン」 とメスの仔 「ユイ」 の二匹。
いつもお互いをいたわるように、仲良く身を寄せ合って生きてきた。
 
昨年、ユイも体調を崩して生死をさまよった。子宮にのう胞があるとのことで、大きな手術をした。
幸い命をとりとめた。経過も良く、ほっと胸をなでおろした。
彼女は今も元気だ。
 
 
ところが、数週間ほど前から母モル 「リン」 の具合がおかしくなった。
それまでは、こと食べることに対する 「執着」 は眼を見張るほどで、餌を与えれば与えるだけいくらでも平らげたものだった。
おかげで、いつの頃からか、かなり太り始めていた。
 
理由はわからなかったが、この冬以降はずっと身体を膨らませてじっとしていることが多くなった。
そして、その食欲も見る見る減っていった。
 
動物病院に駆け込むと、「急性誇張症」 という、胃の内部にガスがたまり排出されない状態。
治療の手だてはほとんど残されていないとのこと。
 
何とか命だけでも・・・という願いで、別の病院に診せることにする。
すると、心臓がかなり弱っていることが告げられた。
心臓肥大が認められ、胸水もたまっているとのこと。胃だけではなく他の臓器も機能不全におちいっており、いつ死んでもおかしくないと言う。
やむを得ず、24時間体制で看てくれるというその病院にしばらく預けることにした。
 
その翌日5月3日の早朝、4時ごろだろうか。連絡があった。
危篤状態だとのこと。取るもの取りあえず現地へ向かうが、すでに時遅く、息を引き取っていた。
死に目には間に合わず、すでに冷たくなった亡骸だけがそこにあった。
 
さぞかし、つらかっただろう。苦しかっただろう。。。
 
 

 
連れ帰るとすぐに庭に大きめの穴を掘って埋葬をした。
墓標を供え、ストーンサークルで囲ったささやかな墓をこしらえた。
 

 
小さな 「いのち」 だが、やはり家族である。
その死に臨めば、やっぱりつらい。悲しい。寂しい。
 
いとおしい存在が、こうやっていなくなるといつも思う。。。
「いのち」 というものに対して、自分には、まったく何もできないのだということを・・・。
無力なのだということを・・・。
 
 
「リン」 たくさんの思い出、ありがとう。
そして、こどもたちを産んでくれてありがとう。
 
いろいろ学ばせてもらったような気がするよ。
 
君に出会えて本当に良かったよ。
今はゆっくり休むんだよ。
おつかれさま。
 
 
5/2/2009

ホームレス相談所の職員としての非日常的日常 ―― 「労働被災民」 を 「棄民」 にするな。

 

 
毎日毎日、来るわ、来るわ。。。
相談所の業務は日々それこそ多忙を極め、忙しさに追われるように激務をこなしている。。。
 
今年に入って、非常食、乾パンの配給数は1日当たり約100人分ほど増えた。
相談者の数も日を追って増え続けている。
大変な状況になっている。「非常事態」 というより 「異常事態」 である。
 
従来からの路上生活者に加え、いわゆる 「派遣切り」 「雇用止め」 など、突然の解雇という憂き目に遭う人たちが
予想を超えて激増しているようだ。
 
 
 
雇用の実態を見ると――
総務省の発表によれば、完全失業率が4.8%。有効求人倍率が0.52倍とのこと。
しかも、これは3月の実績値である。1ヶ月前のものだ。
日々、ホームレスの相談業務に携わっている身としては、この1ヶ月の間にさらに事態は悪化しているものと実感を強くしている。
おそらく、失業率はすでに5%を超えているのではないか?
求人倍率も5割を割り込んでいるのではないか?
 
これは、この国の雇用の状況全般を示すものである。
せめて住む場所があればまだ救いはあるが、それさえ失った立場にある者にとっては、条件はさらに不利に働く。
 
 
実際、相談所でよく見られる場面だが ――
 
日払い・日雇い仕事も、どんなに懸命に求人情報誌(フリーペーパーを含む)や新聞求人蘭を探しても、まず見つからない。
たとえあったとしても、すぐに求職者が殺到し、埋まってしまうという状況だ。 
とにかく日銭を稼ごうとしても、何しろ絶対的に仕事がないのだ。
 
だから食べられない。身を寄せる場所もない。。。
 
「俺たちは虫けらと同じ。もう死ねと言われてるようなもんだ」
そんな言葉さえ、日頃から飛び交っている。
―― まさしく、みすみす多くの人々を見殺しにしているようなものだ。
 
 

 
こうした事態は、明らかに労働政策の失敗による 「人災」 である。
したがって、まずは行政上、「災害」 として位置づけ、制度を弾力的に運用し実態に即した喫緊な支援策を講じることが急務であろう。
 
路上にどんどんあふれ出す 「被災民」 を掬い出す何らかの受け皿(シェルターの増設とか)を早急に設けなければ、「最後のセーフティネット」 たる生活保護受給もままならないまま、彼らは文字通り 「野垂れ死ぬ」 だけになってしまう。
 
 
そもそも、この国では、労働や雇用を取り巻く 「セーフティネット」 そのものがお粗末な作りになっている。
まずは、社会保険としての雇用保険が非正規雇用の増大という今般の労働環境や雇用形態の実情に見合っていないことが大きい。
そして、雇用慣行がいまだに 「終身雇用制」 にしがみついた格好になっているため、流動化が著しくなった現在の雇用情勢の中で、非正規労働者と正規の労働者との間の格差は否応なく固定化してしまうことも看過できない点であろう。
―― これも広い意味で言えば、「セーフティネット」 の問題と言えなくもなかろう。
 
これらは、従来の労働政策・労働行政の枠組みの見直しや企業の雇用慣行の見直しなど抜本対策が不可欠となろう。
 
 
 
連休明けが恐ろしい。
相談所のドアを開けると、長蛇の列が目の前に続いているというシーンが目に浮かぶようだからだ。
何度も言うようだが、彼らは 「被災者」 である。「難民」 なのである。
 
それを 「棄民」 にしては絶対にならない。
 
 
 
4/29/2009

幻日の彼方から訪れる不協和音 ―― 「昭和の日」 にゆらぎ、身悶える。。。

 

 
ここのところ、ちょと息切れ気味である。
日々の他愛もないことに、うろたえ、疲弊する。。。
 
気分がアップダウンする。ジェットコースターのように。。。
高揚感があるかと思えば、いきなり不安の渦に嵌まり込む。
 
時に脈絡なく眠くなる。
 
突如として、記憶が途切れる。
 
夢が日常に 「陥入」 してくる。夢と現実の境目がわからなくなる。
知覚的な刺激が知覚そのものの麻痺を惹起する。
強烈な眩暈である。。。
 
 

 
今、フリップイーノの “イブニング・スター” が耳元で鳴っている。
"An Index Of Metals" という楽曲にやられているところだ。
不協和音の連続が苦しい。。。
 
今日は 「昭和の日」 だ。
 
今の日本は大変な状況だ。
こんな混沌とした社会の中で自分自身の 「軸」 をぶれさせないで生きて行くのは、とってもきつい。しんどい。
しかしそんな中で、個人としての自己を、まさに個としてしっかりつかまえてゆくことがいかに大事なことか ―― そんな思いをいたす。。。
 
 
だから、今日は 「昭和の日」 なんだ。。。
 
 
 
 
4/25/2009

J・G・バラードを追悼する。―― 「終末からの眼差し」 から 「内宇宙」 を描き続けた奇才

 
J・G・バラード の訃報を聞く。
 

 
中学~高校生の時分から、バラードブライアン・オールディズをはじめとするニューウェーブSFと呼ばれる小説ジャンルに耽溺していた。
殊にバラードは私にとっては、自らの自己形成の過程において、その後の「世界観」なり「価値観」なりを築くに当たってかなり大きな影響を受けた。
 
時の声』 や 『溺れた巨人』 『時間の墓標』 などの初期の短編集に始まり、「破滅三部作」 と称される 『沈んだ世界』 『燃える世界』 『結晶世界』 などの長編に触れた時のショックは、多感な時期の少年にとってはどれだけ強烈なものだったか。。。
 
今思えば、作品群に一貫して流れる終末-破滅を迎え荒廃した世界のイメージはただただ凄まじいばかりであった。。。
しかし、そこには諦念にも似た淡々としたクールな空気が漂っている。――の奇妙な雰囲気に魅了されたように思う。
彼自身も自認していたように、そこにはシュールレアリズムの匂いを濃厚に感じた。
当時好んでいた、イブ・タンギーデ・キリコなどの 「心象風景」 的な絵画を思い浮かべたものだ。
殊に 『ヴァーミリオン・サンズ』 の連作などはまさしく、そうしたシュールレアリズム絵画の世界をそのまま写し取ったように感ぜられた。
 

 
さて、バラードと言えば、ニューウェーブである ――
―― 1957年、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを機に、40年代のSFが現実と化したかのような事態に大方のSF関係者は喝采を叫んだが、ひとりこの流れに異を唱えたのが、誰あろうバラードだった。
従来の「外宇宙」を指向するSFではなく、「内宇宙」 すなわち思弁によって人間の内面世界を指向する流れ(ニューウェーブSF)の先駆けを自ら担ったのである。
 
ここに図らずも、文明史観的な 「批評性」 なり、対社会性なりの表現の萌芽が見え隠れするのであるが、本人にはさしたるイデオロギッシュな関心はなかったようである。
彼の関心は、あくまでも人間の内面世界に生じるメンタルな、言わば、「個別事例的」 な 「現象学」 的ドラマトゥルギーであったように思う。
 
この功績ははかり知れない。その後のジャンルとしてのSFのみならず、文学や映像、音楽などの創作、表現の分野への直接、間接にわたる影響は、世で思われているより、はるかに大きいのではなかろうか。
―― と、私などはひそかに思っている。。。
 

 
さて、70年代に入ると、「テクノロジー三部作」、『クラッシュ』 『コンクリート・アイランド』 『ハイ-ライズ』 が書かれる。
これらの作品は、現代社会が人間の手によって作り出されたテクノロジーに囲い込まれた環境の中で、人々が精神の内奥を侵されて徐々に退行し、本能的欲望を露呈しつつカタストロフィックな状況にいたる ―― という、テクノロジーによる 「寓話」 あるいは 「神話」 のような世界を垣間見せてくれる。
 
この連作を読むにつけ、バラードは、まるで、現代の預言者のような存在であるかのようにも思えてくる。
預言者とは言っても、「救い」 なるものとは程遠い、非常に残酷でアポカリプティックきわまりない 「語り部」 ではあるが。。。
 
 
 
思うに、彼の作品の背後に流れる一貫した無機的、鉱物的とも思える荒廃した 「心象風景」 的イメージは、おそらく彼が幼少期に体験した上海での収容所体験が影響しているようだ。
 
自伝的作品、『太陽の帝国』 には当時の状況が描かれている。
これがそのまま体験的事実を記したものであるかどうか判別できないものの、死と荒廃、まさしくアポカリプティックな場面が展開してゆく。しかも感情的な要素を一切排して淡々と ―― である。
死-死体。腐敗。荒廃。収容所。 ―― それから、広島。長崎。
エキゾチックかつ退廃に満ちた破滅的世界。そして、作品には、日本製の戦闘機のテクノロジーへの憧憬さえ添えられている。
もしこの体験が事実であるとすれば、後のバラード作品世界の原点は、この時期にあったのだろうとさえ思える。
 
 
 
もう今はその作品も読まなくなった。
殊に90年代に入って以降、久しく手にとっていない。
懐かしい。が、しかし、今も私の 「人格」 なるものの深層には確実にバラードが描出した作品世界が生きているように思う。
 
 

 
晩年は末期癌に侵され長きに渡って闘病生活がつづいたという。
彼は今どこにいるのだろうか。
あらゆるものが美しく結晶化したジャングルの中で眠っているのだろうか。。。
 
偉大なる預言者に哀悼の意をこめて。。。
合掌。
 
 

4/18/2009

「精神(こころ)」 のエコロジー ―― 来るべき時代の 「エピステーメー」 としての 「システム論的 『神学』」

 
 
 
グレゴリー・ベイトソン            マーガレット・ミードベイトソン
 
 
社会のあらゆる領域で、状況は前途がまったく見えないまでに行き詰まった様相を呈しているこの時代。
彼の思想的な業績の真価が、今こそ見直されてしかるべきである ―― と思っている。
というわけで、今回はベイトソンに着目してみたい。
 
 
彼が評価されるべきは、晩年の著作、『精神と自然』 を中心とする 「精神(こころ)のエコロジー」 なる思索の展開にあるように思う。
 
  
 
彼の考え方は、以下のようなものだ。
 
我々個々の 「精神(こころ)」 は内在的なものだが、ただ身体内の特定の器官、脳などに属するものではない。
それは、身体の外部のさまざまな 「経路」 や 「メッセージ」 の中にも内在している。
そしてさらに、そうした個的な 「精神(こころ)」 をその下位システムとして包含するようなもっと大きな 「精神(こころ)」 がある。
この 「大きな 『精神(こころ)』」 はいわゆる神や宇宙などと比すべきものであり ―― おそらく、特定の信仰、宗教などのグループを形成する人々が 「神」 と呼ぶ存在はこうしたものを指すのであろう。
しかし、この 「精神(こころ)」 はあくまでも、相互につながりあった人間の社会システムや地球の生態系、さらには宇宙全体を含めた相互の 「働き」 の中にこそ内在しているのであろう。
 
ここで言わんとすることは ――
サイバネティクス的な意味での動的な働きとしての 「精神(こころ)」、あらゆるシステムに内在する 「精神(こころ)」 という概念を、敢えて呈示する必要があるということである。
 
読み誤ってはいけないことは、ベイトソンは決して、われわれが通常慣れ親しみ、意識せず使っている人間的な 「意識作用」 としての 「精神」 を、強引に自然へと投影しているのではないということだ。
 
 
むしろ彼の思索の展開は ――
われわれの「思考」のプロセスと生物進化のプロセスとをつなぐ相同的なパターンを認めることによって、それが共に、学習し、進化し、自律性を持ったあらゆるシステムに内在する 「精神(こころ)」 の発現であるという認識にいたったのである。
 
「われわれが 『精神(こころ)』 をもっている」 のではない。
ベイトソンの考え方からすると、人間の 「精神(こころ)」 とは、器官としての脳を含めたわれわれの身体と、それを取り巻くあらゆる環境の中にある関係性のネットワークから、いわば「立ち上る 『作用(働き)』」 であると言った方が正確なのである。
 
「われわれの唯一真実の自己とは、人+社会+環境からなる全サイバネティックネットワークである」 ―― という彼自身の言葉からもそれが伝わってこよう。
 
布を織り上げる人がいるとしたら、布-眼-脳-手-機織機-機布・・・という一連の 「作用(働き)」 のプロセス ―― そのシステムそれ自体に 「精神(こころ)」 が内在している ―― と言うべきであろう。
 
 
これは、地球という限局された生態系のみならず、全宇宙にまで広がるあらゆるシステムの 「精神(こころ)」 が織りなすメタレベルのエコロジーをも射程に置いた思想=「メタ・エコロジー」 とも、「メタ・認識論」 とも 「メタ・心理学」 あるいは、「システム論的 『神学』」 とも名付け得ようか。。。
 
 
その先駆的な知的思索実験は、今後さまざまな形で、さまざまな領域において注目を集めてゆくに相違ない。
そう遠くない将来、いずれ、来るべき文明史的な 「エピステーメー」 あるいは 「パラダイム」 の基盤的テーゼとして取り上げられるであろう。
 
 
 
4/12/2009

ゲマインシャフトとしての共同体 ―― その復権

 

ゲマインシャフトとしての共同体 ―― 今でも途上国と呼ばれる地域などでは普通に見られるものである。
かつて、つい数十年前まではこの国にもそれが存在していたように思う。
夫婦共働きで、介護が必要な高齢者や小さな子供が家にいても、近所の誰かがいつも目をかけていてくれる ――
お互いに助け合い、いたわり合う社会。
 
こうした共同体なるものの復権というのは、今後の社会のありかたを考える上で、ある程度必要になってくるように思う。
 
しかし、これを今この時代に求めるのは難しい。
社会構造やら国民一般の価値観やらがまったく異なっているからである。

もし、これを実現するとすれば、まず 「自由」(今の日本では 「放縦」 と取り違えられているように思う) なるものがある程度制限されることは覚悟しなくてはなるまい。

もっと言えば、それは、もしかすると、「ルール」 「制度」 ととして外から強制されるというより、主体的、内発的な 「モラリティ」 のレベルからなされるべきだと思う。

残念ながら、日本の社会の場合、そこまでの成熟に到っていない。
それが実情なんだろうと思う。


表面上の個人主義がはびこり、「一人になりたい」 「一人の方が楽」 と思う人間が多すぎるこの時代。
人との密な繋がりがそれこそストレスになりうる時代。
その背景にあるものから変えていかねばならないんだなぁ~とは思うものの、何をどうしてよいのか、ほとほと困惑するばかりである。

人とかかわることを心地よいと思えるような、そんな社会を、みんなで目指したいものである。
「法制度」 や 「ルール」 を変えてゆくことも必要だが ―― 繰り返しになるが、まずは、根幹にあるひとりひとりの 「意識」 を変えてゆかねばならないのだろう。

でないと、この社会は確実に 「地獄」 になるであろう。
何十年かかるか、何百年かかるか…ため息が出そだが、状況は、そう悠長なものではなさそうである。
待ったなしの 「出口なし」 状態だと思う。どこを向いても。

でも、明るい光は、ちらちらとですが、そこ、ここ、かしこに、
見えはじめているようにも思う。。。

この世の中、まだまだ、捨てたもんじゃない。
希望を持って、前を向いて歩んで行きたい !!!
「アカルイミライ」 を。。。
 
そう思う。
 
 
 
4/5/2009

「平泉 ~ みちのくの浄土 ~ (特別展)」―― 慈悲と平和の 「仏国土」

 
 
 
 
奥州藤原氏が精魂を込めて築き上げた夢のような都 ―― 平泉の姿を窺い知る、その絢爛な展示品の数々にただただ感嘆。
ため息が出るばかりだった。
 
 
 
平泉は、後三年の役後、白河勿来の関から津軽海峡まで文字通り奥州全域を手中にした奥州藤原氏が本拠とした内陸の要衝である。
藤原氏は、たび重なる戦乱に翻弄された過去の徹を踏まぬよう、初代の清衡以来、三代に渡って平和で文化的な 「独立王国」 を堅持せんがために一切の努力を傾注したようである。
 
「黄金と美の小宇宙」 と称された平泉文化は、本拠地平泉だけのものではなかったらしい。
中尊寺を中心に南北 ―― 白河の関から津軽の外が浜 ―― までそれこそ、現在の東北全域を正確に測量して、一里ごとに金色燦然とした阿弥陀像を描いた笠卒塔婆が建てられていたそうである。
それは、単に交通の便だけでなく、この奥州の地を慈悲と平和の「仏国土」 にしようという、藤原氏の願いから来たものであろう。
 
中尊寺も、それまでこの地で非業のまま最期をとげた者たち ―― 敵も味方も分け隔てなく 「浄土」 へと導くための祭祀の拠点として建立されたものだという。
 
まさしく極楽浄土をこの世に顕現するべく、代々にわたって財力と人力、そして信仰に由来する願いとを注ぎ込んだのであろう。
 
この平泉黄金文化は、海を隔てた諸外国にも鳴り響いたようである。マルコ・ポーロが 「東方見聞録」 で広めた 「黄金の国ジパング」 のイメージは、この平泉黄金文化によるものだと言われる。
 
 
さて、今回の展示品の中にも象牙や美麗な貝やらの細工を用いた螺鈿に彩られた柱などの装飾も散見されたが、どうやらこれらの材料は、国内だけで調達されたものではないと言われる。
貝は琉球産の夜光貝。象牙にいたっては、はるばるアフリカから運ばれたらしい。
ほかにも装飾の材料としては、鼈甲や真珠、瑠璃などの宝石、ガラスなどなど贅を尽くしている。
その絢爛さは、金や銀をふんだんに使ったからというだけではないのだ。
 
では、これだけの文化を築くための富や技術をどのように補ったのであろうか。
一説によると当時の日本の金の産出量は、世界の半分ほども占めていたようである。しかもその大半が奥州にあったらしい。
そして見落としてはならないこと、それは鉄の産出量である。北上山地をはじめとして陸奥は当時国内でも最大規模の産鉄地帯だったことだ。鉄は民需のみならず軍需においても貴重な資源である。
東北は無尽蔵に近い地下資源の宝庫だったのだ。
そして良馬の産地であったことも忘れてはならない。
 
しかし、資源があるだけでは何の価値もない。それを加工し商品化する技術がなければならない。
また、商取引をするノウハウもなければならない。
 
実は、藤原氏は、かなりの規模で技術者をかかえこんでいた節がある。
タタラや山師など探鉱や採鉱、精錬の技術を持った鉱山技術者や鍛冶師はもちろん、大工などの建築技術者やガラスや装飾の細工にかかわる技術者・職人たち等々である。
彼らの多くは定住するのではなく、移動・漂泊する民人であった可能性が高い。
そして、山を舞台に修行をつづけるとされる 「修験者」 の多くがそうした技術者を兼ねているか、あるいは引率していた ―― ということが推察される。
つまり、平泉の栄華を慕って山々をつたい全国から、そうした技術者たちが 「山の民」 のネットワークを介して参集したとも考えられるのである。
 
また、奥州津軽には十三湊という良質な拠点港湾があり、北はカムチャッカから南は東南アジアまで、もちろん中国との交易もさかんであったとのことである。
国内の交易も見逃せない。金売り吉次などに代表される商取引のネットワークも万全だったようである。
 
さまざまなネットワークを背景にした豊富な資源と広域に渡る交易とが、平泉の黄金文化を支えていた ―― とも言えようか。
 
 
さらには、要となる宗教祭祀の面においてはどうであろうか。
藤原氏は、その根幹に天台宗を置いた。
顕密両面において緻密な教義に基礎を置いた天台は、まさに奥州という国家を守護する 「鎮護国家」 の柱となった。
顕教の面では、山も川も草も木もすべて平等に同じ 「いのち」 を共有しているという 「山川草木悉皆成仏」 という言葉に代表される 「法華一乗」 の思想を標榜している。
また見落とせないのは密教の側面である。
慈覚大師円仁が大成したと言われる天台密教すなわち 「台密」 の呪術的力をそれ相当に重用している節がある。
これは、先にあげた 「修験道」 とも密接なつながりが見出せる。
宗教祭祀の側面のみならず、実利的な影響力を持っていたものと察せられる。
 
 
 
1189年、関東の後背に独自の政権があることを恐れた鎌倉幕府 ―― 源頼朝は、弟義経を長らくかくまっていた事実を旨に、これを罪として奥州に出兵(奥州合戦)。
100年ほど続いた、慈悲と平和の「仏国土―― その栄華も志むなしくついえることになる。
 
 
浄土」 の理想郷は、しかし、数々の遺産を介して、今でも私たちの心の中に 「蓮華」 の輝きを放って見せてくれる。
今回の展示品の数々はその耀かしききらめきを垣間見せてくれた。
 
 
 
3/28/2009

「果しなき河よ我を誘え」 ―― SF界の巨星。ディッシュ、ベイリー、ファーマー。。。相次ぐ帰天。

 
ずいぶん昔だが、「SFファン」 を自称していた時代があった。
今となっては、巷にあふれる文学作品にSF的なシチュエーションが含まれていないものなどない ―― と言っても過言ではないような状況である。
往時から鑑みれば隔世の感がある。
 
 
さて、まぁファンにとっては、マニアックな部類に属する二人の作家、トマス・M・ディッシュ と バリントン・J・ベイリー 。
私もうっかりしていたが、昨年相次いで物故していたとのこと。
 

SFマガジン 最新号は、トマス・M・ディッシュバリントン・J・ベイリーの追悼特集」 (SFマガジン 2009年5月号)とのことだったので即購入した。
 
10代後半から20代にかけて、主に 「ニューウェーブSF」 というサブジャンルを好んで読んでいたので、この二人の作家は殊になじみが深かった。

これはこれとして、まぁ、良いが。。。
 

   


つい最近のことだが(と言っても2月末のこと)、フィリップ・ホセ・ファーマー が死去したとの報があった。
彼の作品には、何か肌触りが 「具体的」で、しかも 「形而上」 を思わせる匂いがあった(所謂、形而上学的 "metaphysical" という意味ではない)。
特に 「
リバーワールド」 シリーズ。。。
何というか、私の 「死生観」 なるもの ―― に知らず知らずの内に大きな影響を与えてくれたように思う。。。

 

リバーワールドは、ネアンデルタール人から21世紀の人類、あわせて360億人(5歳以下の子供を除く)が 死んだすぐ後に復活した世界である。それは誰も想像しなかった死後の世界ではあり、全長1千万マイルの一本の大河の両岸の緑の草原に人々は住んでいる。両岸の果ては高い山脈が続き人が越えることは不可能である。そのため移動は幅1マイルはある河を船で移動するしかない。この河には唯一、人間以外の動物である魚が生息している。

この惑星は鉱物が乏しく農業もできないが、一定の間隔で設置されている物質転換装置から住人は1日3食、食料と煙草と時には衣服になる布を聖杯を使って自動的に配給される。また木材になる竹林と森林も身近にあり、切ってもすぐ生えてくる。そして、25歳の若い体を持ち、病気もせず怪我をしてもすぐに直る。死んでもどこかの河岸に何度でも復活できる。

リバーワールドにやってきた直後は、この世界の創造者たちであるエスカル人たちは時代、民族の異なる者たちをある一定の割合で一ヶ所にそれぞれ分布した。人類はそのうちにそれぞれ小国家を建国し、戦争を始めた(他にすることがないから)。まさに地獄でも天国でもない世界「煉獄」である。


詳細の解説は省きたいが、大胆で突飛な設定。いろんな意味で 「ロマンティック」 かつ思弁的な作風だった。
 
フィリップ・ホセ・ファーマー。数あるSF作家の中でも私個人としては大好きな作家だったよ。
91歳かぁ。大往生だね。
 

 

3/21/2009

すでにアラームは鳴り終えている ―― 自己の内なるリロケート(内乱の予感)

 
世間一般でとらえられている既成概念によって 「貧困」 による 「弱者」 を素描してみると ―― おそらく次のようなものになろう。。。 
 
「経済的な要因」 によって (実は、それは明らかに 「政治的な操作」 に起因するものなのだが) 無数の 「空隙」 が生まれ、そこには、まったく顧みられることなく ―― 「勝ち組」 とやらの支配の論理による 「排除」 の対象、つまり、恣意的に作り出された巧妙な 「搾取」 の 「からくり」 が生み出す 「格差」 の果てに追いやられた 「マイノリティ」 が棲み暮らしている ―― と。
 
 
 
 
ところで、そうした存在は、これまで社会の表面的な舞台からは、たいていの場合、巧妙に分断され、注意して見ようとしない限り、「不可視化」 されてきた。
ところが、ここにきて、その 「下層化」 された 「マイノリティ」 は、数の上では、圧倒的な 「マジョリティ」 に変貌しつつある。
 
たとえば、少数民族であったり、障害者であったり、高齢者であったり、生活保護受給者だったり、ホームレスであったり、はたまた、女性であったり、幼児であったり ―― さまざまな形を取って、目の前に現れる。
貧困」 という烙印を押されつつ、「外部」 にある「 現象」 として可視化されるのである。
 
 
 
しかしながら、「経済的な格差」 という 「パッケージ」 を注意深く透かし見てみれば、それは、不可視のまま、潜在化、周縁化されつつ、実は、常に、そして、すでに、自らの内に懐胎されており、切迫した課題として目の前に突きつけられているものであったことに気づくはずである。 
 
その正体は何か。
この社会に暮らす生活者として、われわれひとりひとりが、直視しようとせず、排除し、周縁化し続けている 「何ものか」――
(この根底に働いているのは、広義の 「政治的力」 ―― ひとりひとりが、無意識裡に獲得した 「否定性」 を帯びた 「パワー」―― である)
 
それは、自らの内にある 「マイノリティ
 ―― 怒りやうらみ、悲しみや諦め等々といった否定的な感情、あるいは考え方ルサンチマン )といったものであろう。
 
そうした 「否定性」 に彩られた諸々の意識に光を投げかけ、直視し、「本来あるべき場所」 にアロケートし直すこと。
それが、まず最優先になされるべきではないかと思う。
これこそが、今の時代、あちらこちらで喧伝される 「癒し」 と呼ばれるものの本来の意味であろう。
 
 
 
格差社会」 を外的な制度や (狭義の)政治・経済的な議論によって導き出される法律やシステムなど 「制度的措置」 や対策によって解決しようとする前に、まずは、自らの内にある 「マイノリティ」 に光を当て、それをポジティブに再配置すること ―― であろう
 
「外」 を見て、それを変えようとする前に、まずは、ひとりひとりが自らの 「内」 に向かい、本来の意味で、自らを 「癒す」 プロセスを起動させることが肝要なのではないだろうか。
 
 

 

 
もう、いい加減に目を醒まさねばならない 「刻限」 なのだ。。。
でないと、次の授業に間に合わない。。。
すでにアラームは鳴り終えている。。。
 
 
 

3/14/2009

構造としての 「悪」 を見つめること。(その4) ―― 「ブリコラージュ」 という戦略

 
 
ブリコラージュ」 という言葉がある。
ありあわせのもの今すでに身近にあるものを工夫して組み替えて利用する。
言わば究極の 「編集」の技術と言っても良いかもしれない。
これは、文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースがその著書 『野生の思考』 の中で呈示した概念である。
 
 
    
 
フランス文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年) などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、「ブリコラージュ」と呼んだ。彼は人類が古くから持っていた知のあり方、「野生の思考」 をブリコラージュによるものづくりに例え、これを近代以降のエンジニアリングの思考、「栽培された思考」 と対比させ、ブリコラージュを近代社会にも適用されている普遍的な知のあり方と考えた。
 
また彼は世界各地の呪術神話における思考の特徴的なパターンも「ブリコラージュ」と呼んだ。たとえば神話体系は様々な神々や英雄が織り成しているものであるが、全体としては個々のエピソードの集まりであり、きれいに一続きにはなっておらず神々の系図も複雑になっている。これは、先行する民族や隣接する民族神話を引用したり、各地方の神話を一まとめにしたりしながら神話が形成されてきたために、神話体系が寄せ集めの状態(ブリコラージュされた状態)となっているからである。
Wikipedia からの引用
 
たとえば、西洋近代文明に属さない社会に属する職人は、世界中どこでも、こうしたやり方で仕事をする。
既成の道具も資材も自由に入手できない状況下で自らの生業をせねばならない職人は、何かをしようとする段になって、手持ちのものをじっと眺めつつ、頭を働かせる。
 
採取した石を磨いで矢尻にし、篠竹を柄にして矢を作る。獣皮をなめして衣服や寝具にする ―― などなど。
重要なことは、あくまでも手持ちの、あるいは身近に手に入る材料で実現できることが目指されるということである。
一見、当たり前のようにも思えるこの 「ブリコラージュ」 という概念は、実は 「生命」 というものの基本的な 「ありよう」 を示しているように思われる。
 
つまり、無限の差異に満ちた世界の中で有限の生命が生き延びてゆくためには、有限なるさまざまな要素を組み合わせながら、折り合いを付けるという営為を延々とつづけるしかないということである。
 
これは、人間の営為にとってもまったく当てはまることであろう。
殊に 「思考」 という営為について焦点を当てると ――
ブリコラージュ」 による思考の特徴は、目的を固定しないということである。
 
すでに与えられたものから出発し、その組み合わせによってうまくできることを目的とする。
目的を固定しないので、状況の変化には対応しやすい(適応しやすい)。
常に手元にあるリソースを利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続ける ――
さらに、達成された成果が再び手段の中に組み込まれ、新たな目標が見出される・・・。
そこにおいては、目的と手段はフィードバックループを形成し、ダイナミックに動き続けるのである。
 
 
ところが、西洋近代合理主義に発する 「コントロールの思想」 に基づく 、「調査」→「計画」→「実行」→「評価」 という流れで物事を監視・統制する 「機構」 「制御系」、あるいはそうしたアプローチのありかたは、まず目的・目標を固定することからはじまる。
目的は、諸々の要素に還元/分割され、それぞれの部分的な目的を達成するために必要な手段なり素材なりが計画的に系統立てて準備される。
目的達成のための手段や素材が不足すれば、それは外部から調達され、時には新たに開発されたりもする。
こうしたアプローチは環境の変化が起きた場合には、その作用を打ち消すための手段を行使する。
それが管理・監視だったり、場合によっては収奪や排除や囲い込みであったりする。
 
―― 私たちは、こうしたアプローチ、方法論がいかにこの時代をダメにしたか、さまざまな局面において、いかに致命的なまでのダメージをもたらしたかを、嫌というほど見てきたし、味わいつくしてきたはずである。
 
 
何度も繰り返すようだが、「コントロールの思想」 に基づく 、現代社会の政治、経済の組織や制度上の 「機構」 が、人間や、もっと言えば生態系 ―― 「いのち」 なるものの尊厳を貶め、賤しめてきたかを真剣に省みる最後のチャンスが与えられている ―― 今こそがその時期なのではないかと思う。
 
 

 
ブリコラージュ」 ―― これもひとつの鍵概念であろう。
―― 「ブリコラージュ」 による、やわらかく、しなやかで、したたかな生の営みを復権させること。
管理/制御(コントロール)ではなく、 「共生」 によって、社会内、ひいては生態系との 「関係性」 を有機的に連関させ、「いのち」 の尊厳を第一義にとらえられる ―― 「『いのち』 の循環」 に基礎を置いた価値観/世界観/コスモロジーを再構築すること。
 
そこにまた 「アカルイミライ」 への希望を見出したい ―― そう思っている。
 
 
 

3/7/2009

スワンズ そして、裸のラリーズ ―― 表現の極北に立って、蔓延する 「シミュラークル」 を圧殺する 「ノイズとしての 『シミュラークル』」

 
久しぶりに、スワンズ の初期の作品を聴いた。というか、YouTubeで楽しんだ。
・・・・・・いや、決して楽しくはない。
あの圧殺的な轟音は、むしろ苦痛以外の何物でもない。
 
何と形容して良いかほとほと困惑するばかりだが、取り敢えず、「音楽 (・・・にカテゴライズされて良いものかどうかもわからないが) の極北の荒野で這いずり回る悪夢のような音塊」 とでも言っておこうか。
 
  
 
 
 
この時代、この世界は、内面性の価値を究極まで相対化し、溶解しようとする潮流に席巻されている。
これを、ケン・ウィルバー は 「フラットランド」("Flatland") と呼んだ。
そこでは、あらゆる 「価値基準」「価値観」 が外面化・浅薄化の流れにさらされ、いかなる状況下でも寸分違わず計測可能な、あるいは再現可能な情報だけが信頼できる基盤として排他的に重視されることになる。
こうした状況においては、人間の内面性を探求することをとおして人格の成熟を醸成することを意図する芸術等の営為の存在価値などは、必然的に軽視されるようになる。
 

 
ボードリヤール の受け売り的物言いになるかもしれないが ――
現代社会は総体としてのシステムの中から意味と根拠を次々に喪失させて、「フラットランド」("Flatland")化した 「ハイパーリアル」 な現実でしかない、この日常の中で、もはや 「意味や価値の直接性、絶対性からの乖離」  ―― 疎外感 しか見出せないようになっている。そうした中では、「模造と分身」 の流動化が加速されながら進展する以外何も起こらない
 
 
状況としては、すでに単なる 「消費」 のための 「消費」 という構図が、この世界のあらゆる事象を飲み込み尽くしているように見える。
あらゆる 「生産物」―― 工場などで製造される商品に限らず、芸術や言説などの表現をも含む ―― が、まさに作られた瞬間に (あるいは、作られる以前に)、すでに消費し尽くされてしまっている ―― そんな 「現実」 (シミュレーションとしての 「現実」) なのかと思う。
ここでなされるあらゆる営為は、過去に 「生産」 された 「ガジェット」 のコピーを、「再編集」 し、「シミュラークル」 化した 「スカム」 の荒野をさらに荒廃させ、あらゆる 「価値」 を等価にし尽くすものでしかない・・・のではなかろうか。
 
 
ところで、余談かもしれないが、ボードリヤール という 「曲者」 の言説は、読み方によっては、実は ジョルジュ・バタイユ の 「蕩尽」 の 「聖なる力」 を逆説的に持ち出したいのを必死になって我慢しているようにも見える。
彼の著作に触れていて、どこかじれったい思いを抱くのも、実はそういうところに根があるのかもしれない。
 

 
 
さて、初期 スワンズ や 裸のラリーズ のごとき、時に不快で、時に倦怠感を覚えるほど際限なく圧殺的なノイズを垂れ流すような表現こそが、ある意味では、この 「シミュラークル」 化した 「スカム」 の荒野-「フラットランド」 としての現代社会において、その展望なき 「ハイパーリアル」 状況に、一瞬ではあれ、「風穴」 を開けてくれ、「救い」 をもたらしてくれるように思う。
 
そこには、先にちらりと書いた バタイユ  の 「蕩尽」 の 「聖なる力」 が透視できるからだ。
 「フラットランド」-「シミュラークル」 化した 「スカム」 の荒野を 「メタに乗り越えようとする意志」 の息吹を感じるからだ。
しかし、果たしてそれが 「希望」 なるもの 「アカルイミライ」 を招き寄せてくれるかどうかはわからない。
きっと絶望的だろうなぁ ―― と思う。
ただ、絶望的状況にあって絶望的な表現に触れるということ、絶望の果てまで 「蕩尽する(される)」 ということは、おそらく、遠回りには見えようが、実は 「希望」 に至るもっとも近道なのかもしれない。
 
 
閑話休題。
ところで、初期の スワンズ の音源からは、怪獣映画、特に 「ゴジラ」 の蠢きを髣髴とされる匂いを感じる。
超自然的でプリミティブかつ シャーマニスティック な雰囲気が濃厚に漂っている。
 
これも、表現の 「ありよう」 から、どれほどの普遍性があるか判別不能だが ――
「価値観」 なり 「世界観」 「生命観」 などを考察する上で、原初的 (プリミティブ:文化人類学的) かつエスニックな意味での普遍性を根拠づける 「参照点」 とはなり得るかもしれない。
―― と思った。
 
 

2/28/2009

「差別」 「暴力」 「権力」 の成り立ちと 「多元主義」 的スタンスの意義 ―― この、ろくでもなくも、いとおしい世界に。。。

 
なぜ、「差別」 というものがあり、「暴力」 が生じ、「権力」 が作り出され、 紛争 や 戦争 が起こるのか。。。
 
そして、これらは、人間が 「文化をもって 「社会を形成するかぎりは避けられ得ない宿命のようなものなのだろうか。
 
 

 
文化」 とは人間生活の中に不連続性と 「差異」 を生み出す装置だとも言える ―― と思う。
たとえば、人間の一生は生物学的にはひとつの連続体としてあって、そこには絶対的な断絶なるものは見えない。
しかし、「社会」 あるいは 「文化」 には、そこに、子供や大人、老人、あるいは男性、女性というような性差、民族、宗教といった 「区分」 が現出する。
そして、それぞれの 「区分」 ごとに独自に 「ふるまい方」 や 「役割」 などが設けられ、「差異」 と 「関係」 とを明確にするといった 「働き」 が生ずることになる。
 
「区別」 と 「差異」 から生じる 「関係」 の体系は、社会 生活を秩序あるものとして維持するために不可欠となる。
また、それぞれの 「文化」 は人間の可能性の特定の側面を選択し、形を与えて発達させるということになる。
であれば、種としての人類のより多面的な可能性を開花させるためにも諸民族や 「文化」 の多様性があるということは望ましいものであろう。 
 
翻って、世界的な規模で 文化 様式の 「画一化」 が進みつつある現在、「差異」 の消滅は 「文化」 と 「精神」 の死を意味することにもなりはしないであろうか ―― という懸念を抱かざるを得ない。
 
 

 
ところで、皮肉なことに、 「差異」 を生み出すことで社会と 「文化」 を成立させてきた人類には、「差異」 の解消を望む傾向性と 「差異」 の消滅を恐れる傾向性というアンビバレンツな 「衝動」 が並存する。
 
しかし、大幅な 「差異」 の消滅(無差異化)はアノミーを生じさせ、反動としての 「差異化」 への衝動を生み出すことにもなろう。
それらが相互補完的な拮抗関係にならず、「区別」 と 「差異」 とは、しばしば 「差別」 なるものを生み出す。
男性女性の 「区別」 が 「男女 差別」 に、民族の 「差異」 が 「民族 差別」 に・・・という具合にである。
それが、相互の憎しみ合いやいがみ合いを生み、「暴力」 へと発展することにもなる。
―― 暴力」 が固定化すると 「権力」 という 「社会 的な支配装置」 を生み出すし、暴発し報復の連鎖が生じると、さまざまな 紛争 や 戦争 へと発展する場合もある。
 

 
文化」 が 「差異」 を生み出し続ける装置であるなら、区別された者同士(子供大人、男性女性、民族、宗教 etc.)がどのように 「関係性」 を成り立たしめれば良いかということが大きな課題となろう。
 
つまりは ――
社会を構成する人々が誠実な交渉に携わることによってその相違点や 「差異」 の多様性を相互に容認・肯定しあうというスタンス―― 多元主義」 的な 「関係性」 の構築こそがまずは求められるのではなかろうか。
 
さて、そのためには何が必要なのか。
―― 未来永劫に渡って繰り返される問いであろう。。。か。 
 
 

2/21/2009

「カッコーの巣の上で」 ―― 薄明の原野を疾駆する 「主体としての 『狂気』」 へのオマージュ

 
 
 
 
昨夜、ふとTVのチャンネルを操作すると、「カッコーの巣の上で」 が放映されていた。
ついつい最後まで観てしまった。
 

 

 
1975年のアカデミー賞を総なめにしたということ、そして描かれたテーマも興味深かったので、早速映画館に足を運んだ記憶がある。
主人公を演じる ジャック・ニコルソン をはじめ脇を固めるキャストの演技、その豊かな表現力。そして、精神病棟を舞台に展開されるドラマトゥルギーの魅力に引き込まれ、深い感動をともなう強烈な印象が残る作品であった。
この作品は、当時高校生だった私にとって、その後の人生観を左右するほど強烈な影響力を持っていた。―― 今も自分自身の 「原点」 のひとつとして心に刻まれている ―― と言っても過言ではない。。
 
 

《ストーリー》 (Wikipediaより)
 
刑務所から逃れるために精神病院に(詐病によって)入院してきた主人公のマクマーフィー。向精神薬を飲んだふりをしてごまかし、婦長の定めた病棟のルールに片っ端から反抗していく。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと主張し、他の患者たちに多数決を取ったりなどする。
 
また他の患者を無断で船に乗せて、海に出たりもする。こうした反抗的な行動が管理主義的な婦長の逆鱗に触れ、彼女はマクマーフィーが病院から出ることが出来ないようにしてしまう。マクマーフィーはチーフが実際はしゃべれないフリをしていることに気づく。
 
クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。その後、逃げ出すつもりだったのだが寝過ごしてしまう。翌日、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことで婦長から激しく糾弾される。そのショックで(マクマーフィーにかわいがられていた)若い男性患者が自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。その後、婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。
 
マクマーフィーは病院が行った治療(ロボトミー)によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になって戻ってくる。
 
ネイティブアメリカンである患者の “チーフ” はマクマーフィーを窒息死させ、「持ち上げた者には奇跡が起きる」 とマクマーフィーが言った水飲み台を持ち上げて窓を破り、精神病院を脱走していくところで映画は終わる。
 
 
 

今回この映画を観て、改めて ミシェル・フーコー の諸々の言説に思いが至った。
 
まず、「狂気」 についてである。
フーコー によれば、近代合理主義に裏打ちされた 「理性」 は 「狂気」 という 「他者」 を措定することで明確に自らの境界を呈示し、その真の姿を現すことになったという。
つまり、「近代的理性」 の確定(限界の呈示)は、狂気の監禁・排除から始まったということである。 
17世紀中ごろ、「一般施療院」 に狂人が監禁される。「狂気」 は 「非理性」 と命名され、隔離収容される。
そこでは、「狂気」 は決して 「理性」 と対をなす位置が与えられているのではない。
「狂気」 はあくまでも排除され隔離されることにおいて、その存在が抹殺されるのである。
「かつて狂気はあたりを歩きまわり、一般の背景や言語の一部をなしていた。それは各人にとって日常的な体験であって、それを抑制するよりはむしろ大切にしたのである」
(「狂気の歴史」)
 
ところが17世紀になって突然、狂人は所有権を奪われ、人間関係から疎遠にされる存在となったのである。
「近代的理性」 というものの本質が、実はこうした排除と隔離にあることが明らかになってくる。
フーコー は言う。
「ある社会は、その人員が示す精神疾患において、ポジティブに自己を表現するものである。こうした病のかたちに、どのような地位を与えるとしても、このことは変わらない。たとえば、未開人において…中略…われわれの文化の場合のように、病を社会生活の外部に位置づけることによって、これを国外追放しようとも、ことは同じである」
 
「近代的理性」 に貫かれたこの社会のポジティブな自己表現とは、正しく己の 「他者」 を暴力的に排除・監禁し、その存在を抹殺することであると言えよう。実に、「近代的理性」 とは 「権力」 と通底しているのである。
いやむしろ、こうした 「近代的理性」 のあり方は 「権力」 のあり方そのものであろう。
 
では、「近代的理性」 にとっての 「他者」 とは誰であろうか。
監禁のための選別は何を基準としてなされるのか。
一言で述べるなら、17世紀西欧の社会秩序に適合しない者たちがまず監視される。
この監禁の対象者が織りなす群像こそが、その社会を逆照射することは言うまでもない。
これによって 「社会のポジティブな自己表現」 はより具体的なものになる。
 
17世紀に 「非理性」 として監禁された 「狂気」 は、18世紀に入って、「病気」 として知覚される。
「狂気」 は 「治療」 を受けるべき対象としてとらえられるようになる。
「近代的理性」 すなわち 「権力」 は、「狂気」 を単に監禁するとどまらない。
「狂気」 は徹底的な対象化され、それによって 「客観的な 『知』」 が構成されていく。
「客体化された 『狂気』 」 は、もはや 「治療」 という名目で制圧されるべき対象になるのである。
ここで、さらに二次的な分節化が始動する。
即ち 「客体化された 『狂気』」 と 「主体としての 『狂気』」 との分離である。

「客体化された 『狂気』」 とは、19世紀に至って 近代精神医学 の体系の中で 「病理」 として包摂されてゆく 「狂気」であり、医師の一方的な眼差しにさらされる、さらに厳密な 「客体化された 『狂気』」である。
一方、「主体としての 『狂気』」 は、対象化されることなく 「闇の中」 に放置される。
 
フーコー はここでおそらく、「主体としての 『狂気』」 に、言わば、「超越的」 あるいは 「絶対的」 な 「狂気」 を見ているのであろう。
「近代的理性」 による分割という恣意的な「操作」に左右されることのない 「狂気」 ―― 歴史的相対主義の外側に逸脱・遊離してゆく 「狂気」 をである。
 
 
「収容」 「隔離」 「監禁」 という概念を見つめるフーコーの目は、やがて 「監獄」 に焦点を当てる。
フーコー によれば、「監獄」 なるものは、単純な暴力装置であって、かつヒューマニズムによって克服されねばならない (そして、克服し得る) ものとして存在していたものではない ―― ということである。
すなわち 「監獄」 は、西欧近代社会という閉域において必要不可欠な 「制度」 にほかならないという視点を呈示するのである。
 
フーコー は、西欧における 「監獄」 の変遷を追いかけながら次のように言う。
「大いなる監禁網は、社会の中に散在したままで機能するすべての規律・訓練的な装置と結びつく」 と。
(「監獄の誕生」)

ここで問題化されているのは、「監獄」 とは単なる個別的な 「建物」 としてのそれではなく、「学校」 や 「病院」 等をも 「結節点」 として 社会の中に網状に偏在している 「権力」 のことだ ―― ということにほかならない。
これは、イヴァン・イリイチ が呈示した 「脱学校化」 「脱病院化」 というキーワードにも通じるように思う。
 
 
しかも、

「社会の監禁網は身体の現実的支配と果てしない観察とを同時に確実に行なうのであって、自らの固有性の点で、権力の新しい経済政策に最も合致した処罰装置であり、しかもこの経済政策そのものが必要とする知の形成のための道具である」
(「監獄の誕生」)
 
―― とすれば、制度としての “監視と処罰” こそ、近代西欧の 「人間諸科学を歴史的にみて存在可能にした」 枠組のひとつであることは疑い得ないのである。
まず前提とすべきは、「監獄」が西欧それ自体が生み出した 「知」=「権力」 であるという視点であろう。

 
 
さて、長々能書きのように フーコー の 「知」=「権力」 論を展開してきたが ――
 
「カッコーの巣の上で」 には、これまで述べた 「状況」 が見事なまでに集約されているように思う。
ことさら最後のシーンが秀逸である。
“チーフ”が格子窓をぶち破り、薄明の原野を軽快に疾駆してゆくすがすがしいまでの潔さ、力強さ。
これこそ、「近代的理性」 による分割という恣意的な 「操作」 に左右されることのない 「狂気」 ―― 歴史的相対主義の外側に逸脱・遊離してゆく 「狂気」 の姿なのではなかろうか。
 
 
 

2/15/2009

ルドルフ・シュタイナー 「人智学」 がとらえる 「死生観」 そして 「ライフサイクル」

 
またしても、「死生観」 あるいは人間の 「ライフサイクル」 なるものを考察してみたい。
このブログでは、以前から何度も同様のテーマで書いてきたことである。
すでに独白したことだが、このテーマを探求すること ―― これは、私にとって 「ライフワーク」 のようなものであるということ。
それほどの自負は持っている。。。
 
 

 

 
今回は、ルドルフ・シュタイナー が体系化した 「人智学」 を題材に選んだ。
 
シュタイナー の著作、あるいは シュタイナー 関連の数々の著述に初めて触れた読者が気づくこと。
おそらくそれは、「エーテル体」 「アストラル体」 ・・・といった聞きなれない言葉が頻出することではないだろうか。
これらは、「成長」 や 「発達」、人間の 「存在」 の 「在りよう」 等、さまざまな問題を説明するために シュタイナー が用いた固有の 「術語」 である。
 
シュタイナー は人間を構成する基本的な要素を、「物質的な肉体」 「エーテル体」 「アストラル体」 「自己(私)」 という四層に分けて説明付けを行なっている。
「物質的な肉体」 は通常私たちが 「身体」 として認識している層である。これ以上の説明は不要であろう。 
「エーテル体」 とは有機体をひとまとまりに保持させる生命の形成力をもたらす構成要素を言う。
すべての生命体は、それぞれ独自の 「エーテル体」 を持つとされる。
「アストラル体」 とは 「感覚」 や 「感情」 など 「主体」 としての固有の意識として把握される作用をもたらす構成要素である。
植物には 「アストラル体」 は存在しないが、動物には存在するという。
「自己(私)」 とは、「物質的な肉体」 「エーテル体」 「アストラル体」 に対して働きかける作用を持ち、個としての自らを司る人間の本質=
シュタイナー
流に言えば、「超感覚的」な実体あるいは 「霊的実体」 である。
ちなみに、動物は 「アストラル体」 は持ってはいても、「自己(私)」 は持っていないとされる。
「自己(私)」 は 「想起」 という精神の作用を可能にする。それ故、人間は体験している対象が変化することを理解することができるとされる。動物は、一見 「記銘」 する力を有しているように見えるが、実際はこれを有していない。
 

    

 
さて、これらを元に、シュタイナー人智学)が提示した 「成長」 論あるいは 「ライフサイクル」 論を示したい。
 
まず、人は 「霊界(精神世界)」 からこの 「現実世界」 にやって来て 「物質的な肉体」 を基盤とした、異なる存在形態に移る (=「身体」に宿る) ということ。つまり 「誕生」 というイベントが起こる。
―― これが前提である(存在形態を変えはするものの、「霊界(精神世界)」 とのつながりは、終生継続しているという)。
 
「物質的な肉体」 として誕生しても、他の構成要素は、まだそれぞれ 「殻」 に包まれたままである。
時が来ないと 「脱皮」 というイベントは起こらない。
人生の前半期は、その 「脱皮」 が節目となっていて、シュタイナー によれば、それが7年周期に起こる。
つまり、7年ごとに順に 「脱皮」 してゆくという明確な 「発達段階論」 になっているのだ。
 
6・7歳の頃は 「エーテル体」 が殻から 「脱皮」 する。
12~16歳の頃、「アストラル体」 が殻から 「脱皮」 する。
その後時を経て20歳過ぎになって 「自己(私)」 が 「脱皮」 をする
 
―― 「成長」 という視点から見ると、シュタイナー の考え方はかなり興味深い。
ここには、ユング が 「成長」 という議論の焦点においていた 「個性化」 といった視点はない。 

 
 

以上かなり省略した説明になってしまったが、シュタイナー は、人間に固有の生理的現象をこの組み合せから説明している。
 
たとえば、睡眠。
眠っている間、人間は 「物質的な肉体」 「エーテル体」 のみを有し、「アストラル体」 と 「自己(私)」 とを含まぬ状態になる。睡眠中に意識すなわち思考や快苦などの感覚を有しない理由は以上から説明できる。睡眠状態下にある際、「アストラル体」 と 「自己(私)」 は、「物質的な肉体」  「エーテル体」 を残して遊離し、霊的な次元での環境に存在し活動している。
シュタイナー によれば、「物質的な肉体」 が物質世界に属するように、「アストラル体」 も 「アストラル界」 と呼ばれる領域にに属しているという。
眠りに落ちるたびに 「アストラル体」 は 「アストラル界」 に戻り、目覚めると同時に 「物質的な肉体」 「エーテル体」 に吸い寄せられるのである。
 

さて、いよいよ核心となる 「死」 について述べてみたい。
シュタイナー の語る 「死」 とは、ドラスティックと言えるほど簡明である。
「死」 という状態は、「物質的な肉体」 から 「エーテル体」 「アストラル体」 「自己(私)」 が恒久的に切り離されてしまう現象であると説明付けしている。
「人間は死ぬと、物質体を脱ぎ捨て、その後まもなく、エーテル体を脱ぎ捨てたように、このとき、外的な物質世界の意識の中でしか生きる事が出来ないアストラル体部分が崩壊する。その結果、超感覚的認識にとっては、三つの死体、すなわち、物質体の死体、エーテル体の死体、アストラル体の死体が存在する訳である。アストラル体が人間から脱ぎ捨てられる時点は、浄化の時間が誕生から死までの間に過ぎ去った時間のほぼ三分の一を要するということによって特徴付けられる。・・・・・・・ 超感覚的な観察によれば、人間の周りの世界には、浄化の状態から、より高次の存在に移行した人間に、脱ぎ捨てられたアストラル死体が、絶え間なく存在し続けている。これは、身体による知覚にとって、人間が住んでいるところに、物質死体が生じるのと全く同じ事である。」
神秘学概論  第三章 「眠りと死」 より
 
「死」の直後、「エーテル体」 は 「物質的な肉体」 からは遊離するが、「アストラル体」と は結びついている。
「臨死体験」 は、こうした特異な瞬間にに起こる現象と言えよう。
「アストラル体」 と結びついた「エーテル体」が、きわめて短時間 「物質的な肉体」 から離れ、再び 「物質的な肉体」 と結びつき直す現象ということになろうか。
 
 
「誕生」 から 「死」 までの体験的存在としての 「私」 と、死後の体験との境界について、シュタイナー は明確な区別をしていない。
つまりは、「自己(私)」 が 「生死を越えて一貫する主体」 ということになる。
仏教的な語り口からすれば、「自己(私)」 が 「彼岸」 と 「此岸」 とを往還する ―― ということであろうか。
「自己(私)」 が、三重の 「体」 を身にまとって地上に生まれ (生有)、成長して 「自己(私)」 が成長を終えて時点が 「本有」 の折り返し地点になろうか。
その後はその三重の 「体」 も順を追って衰え、死を迎える(死有)。
「物質的身体」 から遊離した後も、「アストラル体」 「エーテル体」 が離れゆくプロセスを経て、「自己(私)」 だけが純粋に残る期間が 「中有」 となろう。
 
興味深いのは、先にも述べたとおり、シュタイナー の思想は 「輪廻転生」 を肯定していることである
ところが、「輪廻転生」 が真実である 「証拠」 については、そのほとんどが 「物的証拠」 ではなく 「状況証拠」 でしかない。。。
 
こうした事実についての 「実証科学的な合理性」 をいかに証明するか、これは難題である。
「状況証拠」 は見出しえるが、近代合理主義的な実証科学が客観的な方法論をもって明快な理論を展開することは、事実上不可能と思える。
 
では、こうした考え方が無益で無意味なものであるかと言えば、そうとも言い切れない。
「近代合理主義」 という 「パラダイム」 あるいは 「エピステーメー」 自体をさえ相対化する視点が喫緊にも必要とされる時代にあるということを認識すべきであろうからだ。
だとすれば、いわゆる 「実証科学」 的な方法論なり方法による、いわゆる 「客観」 の眼というものをも取り敢えずは 「保留」 してみるという選択もありえるのではないだろうか。
 

 
さて、「輪廻転生」 という パラダイム は、人間の 「ライフサイクル」 をいかように解き明かしてくれるであろうか。
 
死」 とは 「ライフサイクル」 における発達段階の一過程にすぎない。
「誕生」 から幼少期を経て青年期、成人期、そして老年期を迎え、「死」 に至るという流れの中の一場面でしかない。
さらに、プロセスは 「霊界(精神世界)」 にまで継続してゆく。
こうした考え方からすると、「死」 とはまったく恐るるに足らない自然な過程ということになる。
この 「現実世界」 から、より自然な状態に還ることであるからである。
 
 
この パラダイム の特筆すべき点は、人生というものを、より長期的なタイムスパンでとらえるということである。
一つの人生で終結するのではなく、幾度も幾度も繰り返し 「人生」 の連なりの中で 「ライフサイクル」 は継続するという考え方を取っているからである。
ひとつの 「人生」 だけでは見る限り説明のつかないことも、いくつもの 「人生」 の連なりの過程を追うことで説明できることもある。
「今生」 だけでは理不尽に思える事柄も、一連の連なりのどこかに 「原因」 を見出し、その結果として被っている場合がある ―― といったことがわかったりするからである。
 
こうした視座は 「人生」 の深奥な意味を問い直す機会を与えてくれることにもなる。
 
「なぜ今自分は生まれてきたのか」/「なぜ自分は固有の 『人生』 を背負った 『私』 として生きてゆかねばならないのか」/「・・・こうしたことにどんな意味があるのか」
―― という 「『存在』の根源を透視する問い」 をである。
 
およそあらゆる人間存在(「魂」)は、これまでの 「転生」 の歴史変遷の中で創りだした カルマ」 を背負っている。それを 「解消」 して、より高い段階へと 「成長」 し続けるために、この地上にやってくる。何度も何度も。。。
 
これこそが、つまるところの 「人生の目的」 である。